義弟 主税さんを偲ぶ


 今年(平成20年)のお盆は義弟高橋主税氏の初盆となった。幾ばくかの想いを記すこととする。

 そもそも私(K)は末子の長男である。よって弟や妹がいない。ところが、結婚した相手は1男2女の長女。結婚により義妹、義弟ができた。そして彼らが結婚するに及びさらに義弟、義妹が増えた。都合二人の弟と妹ができることになった。主税氏はその中の一人である。
 私は彼に声をかけるとき「主税さん」と呼んだ。

 主税さんが亡くなったのは平成20年5月21日。5月15日に誕生日を迎え59歳になったばかりの、今時では余りにも早い死であった。
 最後の病名は承知していないが、発病のきっかけは膀胱癌であった。手術もし、2年余の闘病生活を送ったが、最後まで生きる望みを捨てない、そして愚痴をこぼさない生活ぶりであったという。これを支え続けた彼の妻、私の義妹「明ちゃん」にとっても、できることは全てやったという、共同の闘病であった。

 主税さんの年齢。私と家内は3歳年が違う。家内と明ちゃんは2歳違い。主税さんはこの明ちゃんと同級である。従って私とは5歳離れることになる。

 地元の中学を卒業した後、高校は浜田高校へ進学した。地元には私が卒業した矢上高校や、瑞穂に近い川本高校がある。高校へ進学する大半はこれら地元高校である。浜田高校へ進学するということはまず「できる子」でなければならない。浜田高校を卒業した後は広島大学文学部仏文科へ入学した。なぜ仏文なのか、これまで聞く機会はいくらでもあったのに、そのことに触れたことはない。
 当時、大学は学園闘争の真只中にある。多くの学生が参加した。正義感が強ければ強いほど、参加の度合いは深まる。権力機構と衝突の場面にも遭遇する。「名誉の逮捕」もあり得る。主税さんもその中の一人になった。この事が、後の生活に影響を及ぼしたか否かは定かでない。

 彼の容貌。今流に言えば「いけめん」である。背も高い。ただし、馬面というか顔は長い。
 彼の長兄が話していた。
 「大学の休暇で帰ったとき主税の顔が突然長くなっていて驚いた」と。
 長くとも美形に違いない。
 できる、背は高い、加えて美形となると、おそらく彼は同級仲間ではヒーローであったろう。

 話の進行上、義妹のことに少し触れる。明ちゃんの事である。彼女は隣町の川本高校を卒業し、広島県庁に就職した。
 外見はしとやかに見える。しかし、芯は甚だ強く忍耐強い実践力の持ち主である。今次主税さんの死に当たり、葬儀から忌明けの法要に至る一切の儀式を一人で取り仕切った。
 このような同窓の二人が広島で再会した。どちらが仕掛けたかは聞いていない。成り行きとして結婚となる。主税さんは修士課程に進みいまだ学生の身であった。

 修士卒業をもって就職。就職先は「株式会社ライフ」。昭和27年創業の広島では老舗の会社である。主税さんの不運は会社が平成12年に倒産し、アイフルの完全子会社になったことである。倒産前は総務、企画関係の仕事であったが、アイフルに吸収された後は関西に赴任し、資金回収部門などの仕事に従事した。このことについては、後でも少し触れる。

 文学部に入るだけの事はあって、名文家であった。その一つが年賀状。去る1年間の高橋家と世相の動きを年賀状1枚に見事に表現した。
 少し長いが、一例を示す。98年(平成10年)を迎えるに当たって作成されたもの。会社倒産前で主税さんにとっては最も充実した時期に書かれたものである。



 ペルー大使館占拠事件で幕開けした‘97年も「倒」の嵐で幕を閉じた1年でした。世の中余り明るい出来事   が無かったようですが、さてさて我が家は?
 長男了は、10年間続けてきたサッカー人生にほぼ別れを告げて名古屋で大学生になる予定です。ついに一  度も全国大会の夢は果たせませんでした。次男創は、相変わらず神楽にはまっていて30回以上各地でチャ  ンチャカチャンチャカ舞ました。女形で化粧をした息子をみたときは、宇宙遊泳しているような複雑な気持ち   でした。公演の度にお抱え運転手にされる親もよく辛抱したものです。妻明子は、消費税対策として、4月に  はパートを卒業し、フルタイムで勤めています。パパラッチの標的になることもなく、私は長生きできると妙に  納得しています。私はといいますと、「失楽園」は読む世界でしかなく、総会屋に転職でもしようかなど馬鹿な  ことを考えながら相変わらず酒を嗜んでいます。
 ご多幸を祈ります。



 文筆に関する寓話をもう一つ。これは主税さんが亡くなった後、明ちゃんに聞いた話であるが、闘病中かなりの長文を物したという。
 渡された原稿を読みながら「芥川賞作家の妻になれる」と半ば冗談で、傍にいた長男に話したところ
 これを聞いて「出版社に原稿を持ち込んではならぬ。出来栄えの価値は十分承知している」と、主税さんは釘をさしたらしい。

 先の賀状に出てくるが、酒も大層好きであった。私も好む。盆や正月、家内の実家で一緒によく飲んだものだ。
 食べ物の好みは少し変っていた。魚は普通のものより蛸や烏賊。椎茸は笠より軸。漬物は葉物よりたくわん。兎に角、堅いものを好んで食べた。

 さて、例の年賀状で、主税さん後半部の足跡をたどってみる。

 平成14年を迎える賀状に「突然大阪での単身暮らしを余儀なくされ、33年住み慣れた広島を後にしたのは11月半ばでした。・・・」と生活の変化を知らせている。
 平成15年を迎える賀状には次の記述。
 「・・・単身赴任の言葉のイメージとは違って、当の本人はそれ程哀れで悲惨な生活という訳ではありません。家計感覚は研ぎ澄まされ、料理の腕は上達しつつあります。『ぐうたら亭主には旅を・・・』かも。旅といえば毎月来阪する妻と連れ立って大阪・京都・奈良にと。・・・」

 平成15年に滋賀県へ転勤している。但し同じ年、主税さん(私にとっても同じ)の義父が亡くなり、平成16年を迎える年賀状は無い。
 滋賀への転勤は平成17年を迎える賀状に「・・・我が家からの賀状は2年振りです。私は一昨年10月、琵琶湖畔草津に転勤しました。・・・」と、記載されている。
 この頃癌の兆候が現れた模様。ただし、単身赴任の身軽さもあって病院での検査を放置していたらしい。若い体、癌細胞は急激に拡散した。平成18年に広島市民病院で手術。
 当然のことながら入院前、病に関する記述はどこにも無い。

 病気に関する記述は平成19年を迎える賀状に登場する。生き方に対する主税さんの考え方が窺えるため、少し長いが全文転載する。



 このように賀状が書ける幸せを噛締め、感慨深く新年を迎えようとしております。2月から9月にかけ病室を   棲とした日々、医療スタッフの方々の献身的な治療と看護、妻明子の無償の愛と思いやりにより9月8日無   事生還、実に205日振りの帰宅でした。彼女は「喪中につき・・」の通知を自分の手で書くことも一度は覚悟し  たと、最近打ち明けました。呑気なのかどうか、当の本人には定かな自覚はありませんでしたが・・・
 私が確実に言えることは、只々ひたすら生きる、死ぬまでは兎に角生きる、これがまさしく人生の目的であ   るということ。少なくとも今の私にとってはそうです。自ら「命」を絶つ子供たち、何とMOTTAINAIことか、そ   してそこまで追い詰める卑怯な輩、絶対に許せない。こんなことを考えながら、激震の走った一年を振り返り  つつ心穏やかに新年を迎えます。
 皆様のご多幸とご健康を心よりお祈り致します。



 直筆の賀状はこれが最後となった。

 平成19年10月、主税さんは再度入院。

 平成20年を迎える賀状は「・・・不本意ではありますが、今年は何の変哲もない賀状をお送りさせていただきます。・・・」とパソコン製であった。病状のなせる業であろう。

 私の兄弟姉妹8人の中で最も早く鬼籍に入った。
 「主税」の文字を冠した年賀状を、もはや見ることは出来ない。