一隅を照らす生涯(義衛のこと)

 この「里庭」には、固有名詞を頭に抱く地名を3箇所作った。『勧ヶ原』『亀之助堤』そして『義衛台』である。前2箇所の人物には、他で触れた。残る一人についての記述を試みる。
 義衛・・・Kの父親である。平成5年に死亡した。したがって「里庭」とは無縁である。ただ、私(K)はこの庭に父の名前を残したかった。

 平成8年、父の3回忌を期に追悼文集を作成した。限定30部。義衛の孫までに、思い出を綴る原稿を依頼し、そのままコピーし製本した。45ページの手作り本である。

 私もいくつか『投稿』した。その中から、短いものを一つ抜粋し以下に記す。タイトルは「父の趣味」。

『このタイトルで父を語ること自体が無理なのかもしれない。これと言って取り上げるべき趣味が無いのが「趣味」かもしれない。
 ただ、酒は本質的に好きであった。後年、「若い頃は一升酒を飲んだ」という意味の話しをしてくれた記憶がかすかに残る。年齢を深めても、毎晩、わずかではあるが酒を飲んでいた。母の言に従ったのかもしれないが、ニンニク焼酎を薬として飲むことも多かった。
 煙草もやらない、稽古事もやらない、また、自分から進んで世間話をするでもない、といった生活振りであった。母から話しかけられると、必要最低限の返事をする程度である。必要以上の特別な事をするでも無く、一人静かに時間を過すことが苦痛でない性格であった。意味無く無駄口をたたいたり、無目的に時間をつぶすためだけに何かをしたりというより、一人で悠々と時間を過す事が出来るというのは、これはこれで立派な『趣味』というか、生き方というか、そんな気がするのである。
ただ、文字を書くということは嫌いでなかったようだ。母に言われて仕方なくの作業か、自分で進んで行ったのか判らないが、家計簿的なものを父が書いていた。ちなみに、私が大学を卒業し帰郷した折り、受験の費用から卒業して帰るまでの送金内容の詳細記録を見せられた記憶がある。また、家系図を調べて記録したり、農業の手順を記録したり、というような事もしていた。
 誰に学んだと言う事もなく生まれつきであろうが、筆字も上手であった。我が子二人が生まれた時それぞれ名前の一字を採って、「敬」と「穂」の字を色紙に書いてくれた。これは今でも我々の手元にある。上田屋の墓石用に「南無阿弥陀佛」の文字を書き、石屋に彫らせている。同じ文字を軸にしたのも上田屋に残っている。いずれも性格が現れた几帳面な文字である。
与えられた自分の時間を一人静かに過す工夫を会得し、一人の時間を苦痛と思わぬ生活振りを徹底した。
 これはこれで、他人に真似の出来ない「趣味」といってよいであろう。
 いや、趣味以上の義衛の生き方の本質である。
                                                      (平成8年4月22日)』

 文集の題は「一隅を照らす生涯 上田義衛」とした。
 文集のあとがきに、この題名に触れている。またもや、そのまま転記(部分)。

『表題に「一隅を照らす」という言葉を引用させてもらいました。これは比叡山延暦寺 山田恵諦前座主の言です。皆様から頂いた文章を拝読すると、この言葉が父の一生に符合するような気がいたしました。近くは妻子、孫などの肉親の心を照らし、また近隣の人をなごませ、その輪が時代とともに広がっていくように思います。決して、社会に名を残す人の一生にのみ価値があるのでなく、父のような生き方にも十二分の価値があるものと、思い知らされました。そういう「義衛」を身近にもてた事に感謝しつつ結びとします。合掌』

 平成17年11月5日、姉弟夫婦およびMの母が我が家に集まり父の13回忌を行った。深まる秋の中、穏やかな法要となった。すでに(Kの)母は、その年8月鬼籍に入っていた。