私の古寺巡礼

 平成21年秋、急に思い立ちM同行の京都旅行をすることになった。数日の計画であったが、その中で1日はお互い別行動することを思い立ち、私は奈良のお寺巡りをすることにした。

 「古寺巡礼」といえば和辻哲郎の名著がある。学生時代に読み、本も所有していた記憶がある。処分した思いは無いのだが今の書棚に並んでいない。数度の引越しの中、何かの都合で失せたのかも知れない。
 今回のお寺巡りにあたり何かガイドブックをと思ったが、思いついたのが「古寺巡礼」であった。しかし手元に本は無い。もしや図書館にと訪ね検索してみると、岩波文庫で印刷されたものが蔵してあった。
 この「古寺巡礼」は和辻哲郎氏20歳代の著述で、初版は大正8年に出版されている。もはや90年以上前に書かれたものである。

 私の場合巡ってみたいお寺は決めていた。薬師寺、唐招提寺、そして法隆寺の3寺である。もし時間が許せば、加えて中宮寺、法輪寺もと考えた。
 この場合の交通機関は、京都駅から近鉄線を乗り継ぎ西の京で降りる。ここで薬師寺と唐招提寺を拝観する。法隆寺は近鉄で奈良駅まで戻りJRに乗り換え法隆寺という駅で降りるのが良い。路線図を見ながら一応見学ルートを立案した。ただし事前準備はそこまでで、後はぶっつけ本番の巡礼であった。

 当日は朝から雨となった。京都市外を抜けた電車はやがて田園地帯を走るが、車窓からは刈り取りには少し早い、色づき始めた稲穂が見える。ただ、雨中を走るためか明るく華やいだ景色には見えなかった。
 西大寺駅で乗り換え西の京に着いたのは10時半を過ぎていた。駅横に小さな広場があり近辺の案内板が立っている。それによると薬師寺はすぐそこであり、まず薬師寺から参詣することにした。案内板には唐招提寺も図示されているが、歩いていける距離か判然としない。薬師寺への道すがら小店に立ち寄り問い合わせると徒歩7、8分の距離であるとの答えであった。

 薬師寺境内には、西ノ京駅に近い與楽門から入った。大講堂や回廊の鮮やかな朱色の建物群が目に飛び込んできた。
 薬師寺が今日のような白鳳伽藍として復興したのは昭和40年代以降のことで、それ以前は東塔だけが創建当時のもので、金堂や講堂は江戸時代に仮再建され、それらがわびしく立ち並んでいただけという。したがって和辻哲郎が訪れた当時もそのような状況であったと思われる。



 薬師寺東塔


 少し引用する。
 「小さい裏門をはいると、そこに講堂がある。誇りまみれの扉が壊れかかっている。古びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を見せている。」

 しかし現在の薬師寺は、金堂、西塔、中門、回廊、そして平成15年には大講堂が復興され、白鳳伽藍として見事に甦っている。
 建物群を巡りながら安置されている仏像を拝んだ。和辻哲郎が「とろけるような美しさ」と表現した国宝薬師三尊像そして聖観音菩薩像らである。そのほかこれも国宝の仏足石など拝した。
 多くの仏像や東塔は歴史の重みもあり、深く心に刻み込まれる思いを抱いたが、金堂や講堂、西塔など新たに再建されたものは、あの「西岡棟梁」が心血を注いだものだけに名建築の誉れは高いがあまりに煌びやか過ぎ、私にとっては何か縁遠く感ぜられた。

 唐招提寺に付いたのは正午前であった。雨はその後も降り続いている。
 南大門をくぐると目に入るのが、えもいわれぬ反り返りの屋根を持つあの金堂である。和辻哲郎は「この金堂は東洋に現存する建物のうち最高のものである」と表現し、2500余字を費やしてその美しさの理由を詳述している。
 確かに美しい。傘をさしつつ、一人しばし見とれていた。ただし、残念なことにこの金堂平成21年11月までの予定で修理中であり中に入ることは出来ない。中に安置されているであろう千手観音立像や盧舎那物坐像などは見ることが出来なかった。



 唐招提寺金堂


 境内にあるその他の建物、講堂や東堂それに校倉造りの宝蔵や経蔵などは年月を経て色が落ちている。陽の光でも当たれば色も見えるであろうが、幸か不幸か雨の中、全ての色が抜け落ち白と黒の世界になっていた。こらはこれで美しく、寺の記憶を鮮明なものとしてこの先留め置くに違いない。
 寺の一角に会津八一の歌碑が濡れながら立っていた。
 「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもえ」

 電車を乗り継ぎJR法隆寺駅に着いたのは14時45分頃であった。法隆寺までは距離がありそうである。後で判ったことであるが駅の出口を反対側に出たためタクシー乗り場も見当たらない。このときは幸い雨がやんでいたので歩くことにした。寺に到着したのは15時15分頃、20分あまり歩いたと思われる。寺が近づくにつれ五重塔がだんだん大きくなり左程遠距離を歩いた気はしなかった。
 境内図によれば幅600m、奥行き300m余の大境内である。この中、金堂や五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を主な建物とする東院伽藍が配置され、その他にもところ狭しと形容できる建物が並んでいる。日本最初の世界文化遺産であるらしい。

 西院伽藍から廻ることにした。
 周囲を回廊が囲んでいる。この柱がエンタシス形状をしている。和辻哲郎はこのエンタシスについても詳しく触れており「これをギリシャ美術東漸の一証とみなす人の考えには十分同感できる」と述べている。触ってみるとなにやら温かみを感じ取ることができた。



 法隆寺回廊


 回廊を一巡りして中央に出た。そこには五重塔と金堂が並立する。両者重厚にして、しかも端正な美しさを備えている。五重塔は金網越しに中を覗き見るのみであるが、金堂内は入ることが出来る。ほの暗い中に釈迦三尊像ほか国宝の仏像が林立する様は正に息を呑むほどであった。

 和辻哲郎も似た思いで仏像群を見たであろう。しかしこの場ではあまり多くを語っていない。氏の興味はむしろ別のものにあった。それは「壁画」である。
 少し引用する。
 「わたしたちは阿弥陀浄土へ急いだ。この画こそ東洋絵画の絶頂である。・・・」
 そしてこの画に関する思いを、多くの文字を費やして熱く述べている。

 大変残念なことであるが、和辻哲郎が見た壁画と同じものをいま我々は見ることが出来ない。昭和24年その壁画は火事で焼損している。現在目にすることが出来るのはパネルに描かれた再現壁画でしかない。それでも往時の雰囲気は十分に感じ取ることが出来た。

 西院伽藍を出て次に訪ねた建物は大宝蔵院である。この建物のみは新しい。平成10年に完成した。一種の宝物蔵で玉虫厨子や夢違観音など多くの国宝、重文が収められている。中でも圧巻は棟続きの百済観音堂で、この中にあの百済観音像が収められている。八頭身のすらりとした姿、慈悲をたたえた表情、この仏に会えただけでも法隆寺を訪ねた価値がある。
 和辻哲郎は百済観音にも多くの筆を費やしている。その一部を抜粋する。
 「あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない清らかな胸の美しさは、初めて人体に底知れぬ美しさを見出した驚きの心の所産である。・・・どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなった・・・」と。

 東院伽藍を訪ねた頃はすでに拝観時間も終わりに近づいていた。夢殿の周囲を一回りし全ての拝観を完了とした。もはや中宮寺や法輪寺を訪れる時間的な余裕はまったく無かった。

 宿所に着いたのは19時を回っていた。雨はやはり続いている。
 「古寺巡礼」を携え一日奈良を歩き回った。利用した交通機関は電車のみ。残りは全て歩きとおした。肉体的には少し疲労感が残った。しかし、気持ちは冴えていた。