ホームページ公開に当たって

 過日(平成19年)新聞に「イミダス」「知恵蔵」休刊の記事が載った。世相を反映する用語を収録し、「現代用語の基礎知識」に対抗する形で1980年代後半に創刊されたが、インターネットの普及で手軽に情報を検索できる時代となり発行部数が大幅に減少したためという。
確かに、本を調べるよりインターネット検索の方が、自分の欲しい「レベルと量」の情報を簡易に得られる、と感じる人も多かろう。

 先日私の住む地域で「世代間交流ゲートボール大会」が開催された。私にも声が掛かり出場することになったが、これまでゲートボールをした事がない。ルールくらい承知の上で出席すべきかとインターネットで調べたら僅かの時間で「過不足のない情報」を見つけることが出来た。
情報検索のツールとしては便利なものだ、と改めて思った。
 これは受け側からみたインターネットの側面である。

 一方、情報を出す側はどのような思いで発信するのであろうか。
大きな群の一つは「儲け」のために出すものである。企業や特定の個人はインターネットで情報を発信し、それにより利益をあげようとする。
啓蒙のために情報を出す群もある。先のゲートボールの例は、ある協会のものであった。協会あるいは団体の「勢力拡大」という意図は当然あろうが「儲け」からは少しはなれている気がする。

 それでは、個人が発行するホームページやプログにおいて、利益が狙いでないものは一体何を目的に発信するのであろう。
 わが身に置き換えて見ると単純な理由が観えてきた。自己顕示という欲望である。
 「あの人がホームページを出したんだって・・・」
 「しかも独学で・・・。還暦を過ぎているのに良く作ったネ・・・」
 「やってる事は馬鹿げているが、でも面白いネ・・・」
という、賛辞を得たいのだ。

 「欲望」とはいうものの、この事をそう卑下することはあるまい。以下のように開き直ることも出来る。
 例えば、マルコポーロの「東方見聞録」にしても、ダーウィンの「進化論」にしても
 「私は東洋への大冒険をした・・・」
 「生物の進化の法則を見つけた・・・」と
自慢話をしているに過ぎない、とみることもできる。
ただ、その情報を受け取る者が、情報のなかに潜む価値を読み取り、新たな知見に変換し物事を進歩の方向へ進めていく。

 すなわち情報の発信者は、自分の情報に価値があるかなどと思い悩む事はない。(法律に違反しない範囲において)自慢話を披瀝すればよい。
後は情報の受け側に、「価値を見出す能力があるか無いか」を任せればよい。この繰返しで世の中は進歩してきたのである。

 以上がホームページ公開にあたっての、「まえがき」というか「公開の屁理屈」である。せめてもの救いは、公開しても社会の毒にはなるまいという思いである。

 さて、ホームページのタイトルの一部に「里庭」という言葉を用いた。この言葉「里山」に似ており、先人の使用例も多数あると予想した。ヤフー検索で「里庭」を探してみる。対象を日本語として検索すると267件ヒットした。やはり!・・・と思ったが、中味を読むと三重県にある「百六里庭」であったり、「『四季のづくり」がひかかったりなどする。私の意図するような意味で「里庭」という言葉を使用したものはほとんど無い。唯一近いのは、2005年日本国際博覧会協会の文書で「バイオラングに収穫を迎えた秋の里庭の装いを演出」というのがあった。ただ、田舎の風景に手を加えそれを「庭」と定義するものでは無い。私は「里庭」という言葉の発明者だと、これまた悦に入っている。

 ホームページの作成を思い立ってから、公開までにかなりの時間を要した。
 作成はホームページビルダーを使用した。今回も独学である。個々の技法習得には、テキストやそれこそIBMのホームページQ&Aを利用した。
 途中、邑南町社協から要請があり、フルタイムの応援勤務をした。公開までに時間を要した一因でもある。