年輪をもって『里庭』の過去を探る
年輪をもって過去を探る、ということになると「年輪年代学」という学問があるらしい。
しかし、今回の話はそれ程大袈裟なものではない。自分で伐採した樹木の年輪を数え、『里庭』の過去の若干を探ってみよう、という試みである。
樹木の年輪を数えるという作業は簡単そうに見えるが、いざ数えようとすると、それもある程度正確にと考えると予想外に難しい。年輪幅が狭い箇所もあり、これはルーペの使用でほぼ解決する。薄い線に見える箇所(これを擬似年輪というらしい)もあり、数に入れるか否か迷うこともしばしばである。
全ての樹木を新たに切るわけにはゆかぬから、以前に伐採した切り株の年輪を数えることもある。そのまま数えることが出来ればよいが、黒く変色していて年輪の読めないものもある。このような時はチェーンソーで新たな面を出しなおし、数えることになる。伐採した年度を思い出し、その年から現在までの年数を加算することも忘れてはならない。
(注)本文では上記加算の表示を、例えば 30(+2)のように記述する。30が数えた年輪数。(+2)が加算年 数で、実年数は32となる。
以下に述べる年輪数は、上述の方法で数えた値である。もとより「論文」ではない「雑記」である。一応正確を期したが、数年の誤差があっても許容範囲と考える。
『欅台』の欅。まさか本体を切るわけにはゆかない。昨年、下部の太い枝を切り落とした。その枝の年輪は28(+1)であった。平成18年に『桜台』にあった大きな栗の木が枯れた。この栗の木の年輪は23(+2)であった。
我々が引っ越してきたとき、『勧ヶ原』は雑木や笹が生い茂っていた。コウカ(合歓の木)やマキの木を倒して、椎茸やナメコのホダ木にした。このコウカの年輪は31(+6)であった。ここには太い赤松もある。植えたものではなく自生と思われるが、この木の年輪は30(+4)であった。
近所の人の話によると、桜台から勧ヶ原にかけて以前は牛が放牧されていたという。事実、帰郷したころには、勧ヶ原が終わる辺りに古い鉄製の杭が何本もあり、錆びた有刺鉄線の残骸が巻きついていた。放牧場の名残と思われる。
年輪から推定すると、この放牧場はおよそ40年前(昭和48年前後)に閉鎖された。閉鎖の理由は分からない。当時の住人は建設業や部品製造業に携わっておられ、その方面の業務が多忙となったことによるのかも知れない。
母屋に近い欅台や桜台にあたる場所は、その後手が加えられ一種庭風な構造となった。欅や八重桜が移植されその他にツツジやガマズミが植えられた。現在の『欅台』や『桜台』は当時の基本形態を受け継いだ形となっている。
その奥にある竹薮は、竹の資材的利用と竹の子の採取が目的で移植されたらしい。何時の時期かは推定できない。移植当時は管理されたであろうが、後年手が回らなくなり放置された。竹の根は二の坂から勧ヶ原、そして遠くは亀之助堤あたりまで伸びる。
我々が引っ越してきた後、一帯に広がった竹を何百本という単位で切り倒した。今でも勧ヶ原には毎年竹の子が生えてくる。旬が過ぎると、伸びないうちに倒して歩くのが日課になる。
『一休園』付近から上部の山は檜の植林地帯である。中には杉もあるがその数から見て、自然発生し定着して生き残ったものと思われる。
年輪から推定して、植林は2期に分けて行われた模様である。『一休園』付近はおよそ40年前(昭和43年前後)、「亀之助堤」からその奥一帯はおよそ45年前(昭和38年前後)に実施されている。
図面では平坦に見えるが急斜面の箇所も多い。植林は難作業であったと思われる。おそらく先住者の父君、亀之助氏の手による事業であろう。その後、亀之助氏の死もあり、間伐などの手が加えられなかった事と地力の弱いこともあって、材はみな細い。中には立ち枯れたものも多くある。
現在、時間の余裕があるときなど、これら細い木の伐採や倒木の整理を行っている。完了した面積が4割程度か、残った面積のほうが多い。
数えた年輪で最も多かったのが、『岩上杉』近くの杉で86(+3)というものがあった。この杉に遠くない場所でもう一本、84(+3)という杉も見つかった。理由はあまり判然としない。45年前檜を植樹するとき、以前の杉で残したものがあったのだろうか。
少し話しがずれるが、『南西湿地』のことに触れる。
手元に『奥の田、原生雑地、二の畑』を記載した図面がある。もちろん田圃としての図面で1973年11月測地の表示がある。このうち、原生雑地の形状が図面と少し異なるのに気づく。どう異なるのか。図面は、田圃の一角が少し山側へ食い込んだ状況になっている。言い替えれば、田圃が土砂で埋まった状況である。このことは現地でも確認され、土砂が流出し田圃が埋まったように見える。
それでは何時土砂は流出したのだろうか。すくなくとも、測地が行われた1973年(昭和48年)以降には違いない。
平成18年『南西雑地』の整備をしたとき、木橋にした檜の年輪を数えたら第2期植林材と同数であった。「流出」が証明されたと考える。一方、雑木の太いものの年輪を数えたら22(+2)という数字であった。
それでは24〜25年前、土砂が流出するほどの大雨が降ったのであろうか、という疑問がおこる。当時我々はこの地に住んでいない。知人に聞く手もあるが、気象情報アメダスの瑞穂の値を調べてみた。
日最大降雨量を見ると、1982年(昭和57年)107mm、1983年 252mmとある。これだ、と思った。1983年の中をみる。7月に252mm降っている。さらに7月の中を見る。21日に155mm、23日に252mmを記録している。23日、夜中1時ころから降り出した雨は2時ころにはドシャ降りとなり、1時間当たりの降雨量が45mm、まさにバケツをひっくり返したような状況だ。その後毎時、43、30、40、20、20、21mmと明け方まで猛烈な雨が降っている。この6時間で199mmになる。言い替えれば、地表全面に20Cmの厚みの雨が降ったということだ。
アメダスポイントと八色石は距離が少しあるが、同じ性質の雨が降ったと推定して大きな誤りは無かろう。これでは土砂が流れても仕方ない。
この記事を書いている平成20年11月、「まぼろしの邪馬台国」という映画が公開されている。評判のようだ。勿論まだ見ていない。宮崎康平氏の同名著作の映画化である。同氏は膨大な調査をもとに邪馬台国は佐賀にある、と推定した。
同氏に比するのは甚だ僭越であるが、僅かの調査で、『里庭』に関する若干の知見を得た。