思い出巡り
所用にて東京や川崎方面に出向くことになった。記録破りの猛暑が一転して納まった平成22年9月末のことである。出かける前、所用のほかは美術館などを含めた数箇所を見て回ることになると思って出かけたのであるが、結果は思わぬ方向に進むことになった。
Kが勤めていた工場は当初川崎の溝の口に在った。住所で言えば川崎市高津区久地200番地という。しかし、最寄りの駅が溝の口であることから「溝の口にある」と言っていた。工場はその後山梨県の韮崎市に移転することになるが、それまでの間結婚後約13年間を東京の駒場や神奈川県西部地域数箇所で生活したのである。
この13年間の「思い出巡り」をしてみようというのが、所用は別として、それ以外の旅の主要テーマとなったのである。
最初に工場跡地に行ってみることにした。出発地は溝の口駅である。駅周辺が大きく変革しているのにまず驚いた。我々が生活していたのはおよそ37、8年位前のことであるが、当時メインの商店街は東西南北に走る十字の街路で小さな町であったと思う。それが今では一大地方都市に変貌していた。
さて、工場跡地を目指す。当時の記憶は、田園都市線の溝の口駅横を通り裏の路地を抜け、ザリガニの住む幅1m余りのドブ川沿いに歩いた気がする。駅から工場まで徒歩で12〜13分であった。
「およそこちら」と見当をつけ歩き始めてみたはものの、昔の記憶に合致するものが何もない。「府中街道沿いに立地していた」というのを手掛かりに40〜50分かけてようやく「この地らしい」場所にたどり着いた。そこは高層マンション群になっていた。居合わせた人に聞くと800世帯が住むという。
角のほうにあまり大きくない公園があり、公園名の他に川崎市高津区久地3丁目200番地の所在を示す表示があった。「久地200番地」のみが昔のよすがを偲ばせるものであった。
勤め始めて間もなくの頃3交代勤務に従事したことがある。通勤途上に橋本屋という酒屋があり、3番方の帰りなどその酒屋で立ち飲みしたものである。マンションを見た帰り、この橋本屋はないかと探してみた。なかなか見つからず居合わせた年配の人に所在を聞くとすでに商売は止めてしまったとのこと。店の所在地まで行ってみたがもはや店を思い出させるものは何も無かった。ただ軽トラックが止めてありドアに「橋本屋」の文字が記載してあった。
次に目指したのが、結婚後最初に住んだアパートである。場所は川崎市高津区上作延。工場跡地から訪れようと試みるも、道も方向も定まらない。タクシーを拾うことにした。乗り合わせた車は運の良いことに近辺の事情に詳しい運転手で、「昔の番地でも判ればカーナビで探し出せるかもしれない」と親切に言ってくれる。当初からの予定でないため番地のメモも無く思い出すことが出来ない。その内Mが「神木新道」というアパート前の通りの名前を思い出した。「神木新道」なら判りますと運転手。右折左折を繰り返して「この辺りが神木新道です」と案内してもらった。かつて閑散としていた通りの両側は商店や住宅が立ち並び、最早アパートの跡地を特定することは出来なかった。
このアパートには3年間居住した。
次に転居したのが目黒区駒場にある「駒場寮」である。横に4軒3階建ての建物が5棟あった。計60世帯が住める寮である。昭和30年代に建てられたものと思うが、三井金属が羽振りの良い時期に建造したものでお風呂は桧作り、建設当時は新聞種になったともいう。入寮資格に子供が2人以上という決まりがあったらしいが転居の当時我が家は長男1人のみ。お腹に子供がいるということで入居が認められた。
最寄りの駅は井の頭線の駒場東大前である。かつては地上線であったのが、高架の線に変わっていた。駅から寮へは一本道で迷うことはない。両側の商店など変わっている店も多いが、電気店やお肉屋さんなど昔と変わらず商売を続けている店もある。肉屋はMがよく利用したという。当時の主が健在なら昔話ができたかもしれないが、生憎お休みであった。
程なく寮の場所に着く。ここも高級マンションに変貌していた。
我々が住んだのは第4棟である。「この辺よ」としばしマンションの一角にたたずんだ。もはや「駒場寮」の形跡を示すものは何も残っていなかった。
駒場寮にも約3年居住した。長女が誕生したのもこの地である。
駒場寮の跡地に建つマンション
Kの上司が岐阜県にある事業所に転任することになり、その持家が空き家になる。移り住まないかと誘いがあった。駒場寮も悪くはないが、一戸建ての魅力にひかれて移り住むことにした。住所は大和市下鶴間4159−40、最寄り駅は小田急線の中央林間。当時田園都市線はつきみの駅までしか敷設してなく、居宅からつきみ野駅までは、自転車で15分間要したと記憶する。
家の裏は幅15m程度の松林であり、その先は広い芝畑となっていた。近所に住むOさんやNさんの奥さんとMは今でも付き合いを継続し、数年に1回程度の頻度であるが事あれば顔を合わせている。
その日はかなり強い雨であった。OさんやNさんとは11時に駅前で会う約束にしていた。時間に余裕が無いため、二人に会う前に旧居(すでに上司は住んでなく別の人が住んでいる)のみは見ておこうと、我々二人して雨の中央林間駅を出発した。田園都市線がつながり開発も進み、駅周辺はかなり様変わりしている。元々方向音痴のKは方角の記憶がほとんど無い。Mが「たしかこちら」と先導する。少し歩き「近くのはずよ」とMはいうが、お目当ての場所は見つからない。約束の11時が近くなりやむなく駅へ引き返した。
駅に着くとすでにOさんやNさんが待っていた。昼食を食べようと駅前のビルに入ったが、以前住んでいた頃はこんな高いビルは建っていなかった。
会話の中身は「裏の松林はどうなった?」「小学校は?」とどうしても昔話になる。食後やはり行ってみようかとタクシーで周辺を一周することにした。タクシーのナビゲーターはOさんが勤める。程なく憶えのある旧宅付近まで来た。松林や芝畑はすでに無くなり、空地らしいところは大半住居となっている。一方、見覚えのある個所もあり懐かしい思いをすることも出来た。車を降りて写真撮影などし、再び車で小学校や神社など見て回った。
中央林間の生活期間はおよそ4年間であった。
次の転居先は海老名である。これまでの居住先がすべて借家であったのに対し、この海老名の家は自分たちの初めての所有物である。中古の一軒家を手に入れたのであった。海老名市上郷335−9という番地である。
ただしこの場所にも長くは住まなかった。溝の口にある工場が山梨県韮崎市に移転し、我々の居住先も山梨に引っ越さなければならなかったからである。さらに山梨から岐阜県の神岡に移り、終の棲家は島根にしたためこの海老名の家にいた期間は3年程度であった。島根に帰る数年前、この家は地続きのKさんに買い取ってもらい現在は我々の所有物ではない。
旅の締めくくりに海老名の家も見に行った。しかもKさん宅に宿泊してという形をとりながらである。数か月前まではKさん宅にはKさん夫婦、かつての我々の家には長男家族が住んでいたが、現在はKさん宅を2世帯住宅に改築し旧我々の建物は取り壊されていた。
その日も雨で近所を見歩くことは出来なかったが、一見したところ家々も建て替わり様変わりしている様子が見て取れた。駅までの送迎はご主人にしていただいたが再開発により駅前などは大幅に変貌していた。人口も企業進出の影響で増加しているらしく、隣の厚木市を追い越したという。
数十年前に住み、思い出深い街を3日掛りで見て回った。高度成長の最盛期を通り過ぎたわけでどの街も急激に変貌をしていた。変化の様子は都心から離れるほど大きい。開発が周辺の地方都市においてより多く行われた結果であろう。
我々の場合、生地が島根ということで八色石の地に帰ったが、少し歯車が噛み違えば今頃は海老名で生活していたかも判らない。都会に住むがよいか、それとも田舎に帰るのか。我々は後者を選択した。豊かな自然に囲まれてその選択は正しかったと思いつつ、将来のことを考えると心が揺れる場面が無いでもない。
数日ぶりの我が家には夜遅くたどり着いた。金木犀の香りがほのかに漂った。