百日紅(さるすべり)

 今年(平成19年)の5月、前庭の植木の大移植を行った。

 以前家の前には、翌檜(あすなろ)の木とそれを囲むように五三竹という竹、さらにもう一本サザンカの木が植えてあった。
 あすなろの名前は「明日は檜のように大きくなりたい」というところからきており、大きく成長しない木とは聞いている。そうはいうものの、我々が移り住んで以来かなり大きくなって景色を遮断するようになっていた。五三竹は、節に特徴があり造園用としては好む人も多いらしい。しかし、竹は竹。毎年竹の子が多数生え、放置しておくとそれこそ竹薮になる。転居の折はおよそ300本伐採し、以後も毎年大小あわせて100本程度は始末していた。
 こんな理由はあるものの、私の好みとして翌檜は松より良い。竹も1年に一度手を入れれば何とかなる。取り払うのに躊躇はしていた。

 家の裏の「下の原」には、百日紅が3本ある。幹も太い。剪定が行き届いた家の百日紅は、剪定枝がコブ状になっていることがあるが、前の持ち主の好みか剪定を略したためか、この木の枝は自然に伸びたままである。ただ、欅と銀杏の陰になり、陽が当たらないためであろう、時期になっても花はほとんど咲かなかった。

 昨年秋。翌檜と竹を切り、この3本の百日紅を移植しようと思いついた。ただ、自分の「人力」で出来る代物ではない。町の造園業者に問うてみた。「今年はすでに時期が遅い、来春ならやりましょう。但し、根の状態を見て可能なら実行、無理そうなら根巻きをして、実作業は再来年」と先の長い話しになった。
 この業者、親子二人で営んでいるよし。見に来たのは息子の方。まだ若く、聞けばわが息子より一歳年上。人懐っこい性格らしく、よく喋る。「ヤマボウシ、夏椿など雑木を山から掘り出し植えたこともある」と経験談も含めて話して帰った。
 わが裏山には、雑木も結構生えている。Mとの中で「百日紅のみでなく、雑木を含めようか」との話しも出たが、そのときは深入りした結論とはならなかった。

 春といえば3月?、4月?と思っていたが、作業の開始日は5月2日。初日は昨秋の打合せを確認し、サザンカの移植から作業が始まった。
 その夜のことである。
「百日紅3本より、ヤマボウシ、夏椿、そしてタムシバも混ぜない? いずれも裏山にあるのだから」とMがいう。
「業者は百日紅で想を練っているヨ。いまさら」とKが躊躇。
「どうせお金を払うなら」とMはやはり現実的。
「明日、相談してみるか」とK.。
 翌日ためらいながらも相談してみると、「施主さんの依頼どおり何でもしますヨ」と気安く計画変更を受け入れてもらった。山に入って木を見たり、計画の練り直しである。結論として、百日紅1本、株立ちのヤマボウシ、夏椿、藪椿(業者は「ヤブツ」と省略する)、もう一つこれが一番大きな5本株のタムシバ、と大幅な変更となった。ただし「掘ってみて、不十分なものは根巻きをして来年」と条件がついた。
 二人作業のはずが、「親父が年をとって・・・」ということで一人作業となり、計画の変更も影響し作業が終了したのは5月の半ばを過ぎていた。タムシバとヤブツは根巻きのみで移植は持ち越しとなった。切り倒した翌檜の年輪を数えたら38あった。

 移植の出来たヤマボウシ、夏椿に花は咲かなかったが、8月になり百日紅にはピンク色の花が咲いた。それも昨年までの日陰の憂さを晴らすごとく、数多くの花をつけた。

 Kにとって、百日紅の花にはひときわ深い思いがある。

 昭和43年、三井金属に入社。配属先はダイカスト事業部鋳造課。この課長に国安義明という人がいた。年齢43歳(昭和の年号と同じ年齢。記憶をたどるには都合がよい)。身長183センチメートル。東京大学工学部冶金学科を卒業の後、理学部物理学科の修士に入りなおしたという人物である。
 昭和20年代の半ば、三井金属は主要製品である亜鉛地金の販路を拡大するため、アメリカからダイカストマシンを購入し、亜鉛ダイカストの製造研究に着手した。未だ目黒に研究所があった時代である。国安さんはその研究所時代から製造技術の開発に取り組んだ。いわば「亜鉛ダイカストの生みの親」とも言うべき人である。
 今から思えば43歳。まだまだ若いのに、私から見れば謹厳実直、古武士を思わせる風格があった。サラリーマンの最初の一歩を、同氏に仕える幸運でスタートできたことを喜んでいる。「国安さんにほめられる仕事がしたい」と頑張った記憶が懐かしい。

 *余談、「この人にほめられたい」と思う人に、その後巡り会えなかった。

 8年仕えた。
 
 昭和51年。国安さんは本店(三井金属は本社といわない)に転身。三井金属の技術を統括する部門の長となられた。近い将来は「本店の役員となり、ダイカスト事業部の長になる人」と衆目が認めた。
 1年くらい後のことか。「国安さん肺がん」の報に接す。病院に見舞うと病の中でも勉強されるのであろう、枕元には学会誌が置いてあった。

 昭和53年8月。国安さん鬼籍に入る。

 国安さんの奥様から、ダイカスト事業部に「樹」が贈られた。ピンクの花の百日紅。工場は当時川崎の溝の口にあり、その敷地内に植えられた。
 後日、奥様を見舞いに伺うと「夏に花の咲く樹なので・・・」と、百日紅選択の理由を話された。

 昭和59年から61年の約2年をかけて、工場が川崎から山梨県の韮崎に移転することになる。移転にあたり特別の組織が編成された。建設室と移転室である。建設室は土地の造成や建物の建設が主務。移転室は設備や人の移動を管理するのが役目である。私は移転室の次長(2名の内の1名)になった。移転室長は副事業部長が兼務していたから、実務は次長が主体になることも多い。

 移転室の主要業務に「何を残し、何を移転」させるか取捨選択する仕事がある。私は移転リストの中に国安さんからの百日紅を書き加え、承認を取った。「樹」は韮崎工場メイン通路の脇に植えられた。

 今年の4月、我々は久方ぶりに山梨へ出かけた。その2日目、KとMは別行動。Kはかっての同僚と韮崎工場を訪れた。工場内部の変貌も見たいが、何より国安さんの百日紅が気になっていた。
 樹は元気であった。年を経て風格さえ覚えさせる。痩躯の樹形が国安さんの姿に重なって見えた。