里庭物語の起源

 「里庭」に深く関係した3人の人の話。


その1
 『一の坂』を登ってゆくと、右手にこの地の以前の持ち主の墓地があり、「○○亀之助」の銘の墓石がある。昭和46年1月没、81歳と刻まれている。満年齢とすると明治22年の生まれとなる。この人、無類の働き者であったらしい。

 向かいのO婦人、M婦人と話した折、たまたま亀之助氏に話しが及ぶ事があった。二人とも同じ話しをされる。
「私がお嫁に来た頃、おじいさん(亀之助氏のこと)が田を作っておられた。昔のこと、機械は無い。大八車を引きながら、雨の日も、雪の日も、一人で作業しておられた」という。

 この田とは『二の畑、原生雑地、奥の田』のことで、さらには、田に水を引く奥の堤も一連の作業に他ならない。
 面積を合計するとおよそ5,000u、標高差は約20m余ある。この傾斜で、高いところの土を削り低いところへ盛る。3枚の段差を確保するため石垣を積む。これらの積み重ねでこの田は出来た。気の遠くなるような作業である。とても1年や2年で出来るものではあるまい。

 先の二人の夫人には少し年齢差がある。お二人自身及びご子息の年齢から推定すると「お嫁に来た頃」には少し隔たりがあり、M婦人は昭和30、31年頃、またO婦人は昭和34、35年頃と思われる。
 1、2年での完成は無理という想定、二人の婦人の話から判断して、最も確立の高い田圃の製作年を推定すると、昭和30年〜35年と思われる。この時同氏は現在(H19)の私(K)よりかなり年上、66〜71歳であった。

 亀之助氏のこの尽力が無ければ、今の里庭の景観は存在しない。氏の名前をもらって奥の堤を『亀之助堤』と名づけた。


その2
 平成13年11月末、未だ母屋周辺の整理に追われていたある日の午後、Mの父がチェーンソー持参で予告なしにやってきた。
「椎茸のホダ木切りを教えてやる」という。姑殿に逆らうわけには行かない。
「ここら辺でよかろう」と『竹林』を少し分け入ったところで、俄仕立ての「技術講習会」が始まった。
「始動方法は・・・、保持姿勢は・・・、歯の研磨は・・・」
「木に架かる加重の方向と歯の宛て方・・・」
最も重点を置いたのは安全に係わること
「木が倒れ始めたらどこに逃げるか、予め場所を確認しておくこと」
細めの木を実際に切るなど、半日みっちりの講習であった。教える時に容赦はしない、日記に「ひどく疲れた」と記している。
 翌日は「チェーンソーを買いに行こう」という。これからは木を切ることも多かろう。「自分用の道具は揃えておけ」と言うわけである。町の農機具店に同行し買い求めた。
帰ってからは本番作業。根元直径25Cm程度のマキノキを3本、30Cm程度のコウカ(ねむの木)を1本切り倒した。胴切り、枝の処理、講習会の復習を兼ねながら3日掛りの作業となった。

 父のこの教えが無かったら「チェーンソーで木を切る」ことに、挑むことは無かったかもしれない。今では、多少太い木であっても、ほぼ自分の狙う方向に木を倒すことが出来る。

 ホダ木を切った跡は少し空間となった。倒木を整理し、笹を刈り広場を作った。父の名をとり『勧ヶ原』という。

 チェーソー、草刈機、運搬車、ミニ耕運機。Mの父に教えを受けた技術は少なくない。技術だけではない。この地に目をつけたのもこの父だ。
「里庭」を語るにおいて、この父を外すわけには行かない。


その3
 合併前の瑞穂町には、小さな町にしては立派な図書館がある。近くに本屋の無い環境では図書館の存在は有難い。しばしば利用した。

 平成15年の春と記憶する。
 図書館でフト目に止まった本を借りた。生和寛著「風景を作る人 柳生博」という本である。この本との出合いが、八色石での生活を大きく変えることになった。

 それ以前の生活イメージは「母屋周辺を整備し、身の程に合う畑作をする」であった。この時の参考書は丸杉孝之助著「シルバー農園のすすめ」という本である。“その筋”としては名著のほまれ高く、部分では今でも参考にすることがある。

*少し余談。飛騨地方はイチイの木の一刀彫で有名である。神岡から移住の折、イチイの苗木を持って帰った。
「どこに植える?」とM
「管理限界上限では」とK
合意で植えた場所は今から思えば絵地図で示す『桜台』中ほどである。残念ながらイチイの苗木は根付かなかったが、我々の生活イメージは当時そんなものだった。

 さて、柳生博の本にもどる。
  「風景を作る」その手段は
  ・雑木を植えよう。種類は選ぶな。多くのものを・・・
  ・風土に合った木を(他所のものは植えるな)・・・
  ・グランドカバーは雑草が一番・・・
  ・歩道を作ろう・・・
  ・その他・・・

 「風景を作る」とは“目から鱗”である。
この地に合った“自分の風景”を作ろうと思い立った。出来る事からやればばよい。竹薮の整理。歩道の取り付け。僅かではあるが、雑木の移植も始めた。
 ただこの時期、二人とも再度の勤めを始めていた。「風景を作るため」の時間はさほどない。
 話しが少し戻るが平成15年、猪の度重なる襲撃に業を煮やしたMが、一人でトタンの柵を作り始めた。この折、柵の終点をどこにするか議論となり、二人の結論は絵地図で示す『一休園』辺りということに落ち着いた。“鱗”の後でもエリア範囲はその程度に過ぎない。それでも十分すぎる広さに感じ、知人の来訪を得る度そこまで案内した。来訪者の大半は、広さに驚き、景観に対し賛辞を呈してくれた。

 平成18年4月、二つの転機があった。一つはKの退職。時間の制約が取り除かれた。もう一つは、『原生雑地』と呼ぶ場所の状況変化である。1項目の説明は不要であるが、2項目は少し必要であろう。
 それまでこの地は「中山間地直接支払制度」の対象地であり補助金が耕作者と集落に対し交付されていた。18年この制度の見直しがあり、この地が対象から除外された。集落のある人が「中山間地から外れた、後はどうしても良い」と教えてくれた。

*またも余談。「どうしても良い」には付記すべき意味も含まれていたが、我々は文字通り「何をしても良い」と解釈した。本件については、後日詳述の機会もあろう。

 「どうしても良い」なら、風景作りに活用しよう、と思い立った。4月、『南西湿地』の整理。『亀之助堤』周遊道の整備。6月には『奥の細道』作り。19年春には『雑木並木』など。
 こんな経緯で「里庭」の構想が完成した。完成といっても家作りに例えるなら骨組みが出来たところだ。屋根や壁をはり家具を揃えるなど、まだまだやるべきことは山ほどある。

 平成19年4月。久しぶり山梨を訪れる小旅行を行った。中央自動車道の途中、柳生博氏が主宰する「八ヶ岳倶楽部」がある。旅の計画に組み込み訪れた。
 偶然にも、同氏が林の中を歩いている。
 「声をかけてみようか」とM
 「・・・」とKは臆病

 氏と島根県の因縁は深い。
 「島根県から来ました」とMが声をかける
 しばしの談笑時間をとって頂いた。写真もとMが頼むと、これまた気安く応じて頂いた。
 













「あなたの本に出合えて、豊かな時間を持つことが出来ています」と言葉にしたい気が起きたが、お世辞と取られそうで声にはならなかった。

 「シルバー農園のすすめ」も悪くない。しかし、この『広さ』を生かすには「風景をつくる」方が相応しい。その意味で「風景を作る人」に出会えたことを喜んでいる。