八色石集落の人口推移
集落の人が集まると昔話になることがよくある。
「昔、A屋の奥には家があり、そこにはBちゃんという子供がいた」といった類の話である。
生まれ故郷でない集落に住む身になった私(K)にとって、この種の話に興味はあるものの、中に入り込んで話題を一緒にするわけには行かない。ただ聞き入って、かっての集落の姿を想像するのみである。
そんな事が重なっている内に、昔この集落にはどの位の人が住んでいたのであろうと思い始めた。
調べるとすると役場に聞くしかない。
「集落単位の人口推移を知りたい」旨の電話を瑞穂支所にかけてみた。
「調査してみるので少し時間が欲しい」との回答であった。数日後電話があり、「電算機による住民基本台帳が整備された平成以降は集落単位のデータがあるが、それ以前は国勢調査の値しかない。しかもその値は町村単位の集計値で、集落単位のデータはない」との返事であった。少なくとも戦後からの値で八色石集落のデータが欲しいと考えていたわけで、落胆したもののデータを見に支所に出かけた。
国勢調査のデータは借り受け、コピー後返却することにした。電算機データは必要ならばこれから出力するとのことであり、近年のみの値をもらっても仕方ないと思い受領しないまま辞去した
こんな経過があって、集落単位のデータは存在しないものとあきらめ、このテーマからは意識が離れていた。
しばらく時間が経って、Mの実家を訪ねたときの事である。実家が所属する公民館が創立40周年の記念行事を行い、その折記念誌を発行した。その記念誌が実家に置かれており、見ると終盤ページに公民館に所属する集落の人口推移が昭和30年頃からのデータとして記載してあった。
“欲しい値はこれだ”と思った。記念誌の発行責任者は幸いにして顔見知りの人である。後日顔を合わせる機会があり、このことを聞いてみた。
「その値はH課長の調べによるもの」という返事。これまた幸いなことにH課長も顔見知りの人である。H課長は本庁勤務、わざわざ訪ねるには少し距離がある。いつか出会う時もあろうと思っていると、折り良くある施設で出会う機会に恵まれた。
例の件を申し出る。「調べて連絡します」との回答。数日後、他の参考資料も付け加え、集落の人口推移の値が送付されてきた。データに一部欠落はあるものの、昭和30年以降10年毎の男女別人口と戸数の推移を示すデータが記載されていた。
これらのデータをグラフにしたのが下図である。
昭和30年の数字は男性が146名、女性が135名、計281名であり、世帯数は62戸となっている。
経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれたのが昭和31年のことであるから、昭和30年は戦後の混乱からはある程度脱した時期に当たるであろう。団塊世代の子供たちは小学生にまで成長した時期に当たる。
一方直近の平成20年の値は、男性47名、女性60名、計107名になり、世帯数は40戸にまで減少している。人口が38%、世帯数が65%にまで減少した。
この間、人口・世帯数とも減少している。もっとも激しいのが昭和40年から60年の間で、人口がおよそ半分にまで減少した。この主たる原因は他の農村地域同様、いわゆる団塊の世代以降の若者が集落に定住せず他所に生活の場を求めた結果によるものであろう。
少し視点が変わるが、人口を世帯数で除した戸当たり人数を調べてみると、昭和30年が4.5人/戸、昭和40年が4.0人/戸、昭和60年以降はおよそ2.5人/戸で変化なく推移している。
このことから見ると昭和60年以降の人口減少は、若者の流出に起因するのでなく世帯が消滅することが主な原因と見られる。
以上送付されたデータを概括的に眺めてみた。他の中山間地域の傾向と同様の結果である。このことは事前に予測されたことでもある。だだし、戦後間もない頃、この地域にどれだけの家があり、人が住んでいたかは予測できなかった。この点は今回の調べである程度確認された。1.5倍の家が建ち、3倍近い人が住んでいたのは想像以上の値である。
この八色石集落、以前は家も多く、大勢の人が住みかなりにぎやかな集落であったことがうかがえる。
現在の住人が昔を懐かしむのも理解できる話である。