故郷、土地探しの話し
住民になるというのは「その気になってその土地にたどり着いた日」をいうのか、住民登録をした日のことを言うのか定かでないが、平成13年8月23日我々夫婦はこの八色石の地に、引っ越し荷物と一緒にたどりついた。
勝則(以下Kという)57歳。定年を少し前にしての決断であった。この決断には若干のいわれ(理由)があるが、これは本題とは離れるので割愛とする。ただ、60歳定年まで勤めていればこの地の入手は不可能であったが故、生きる上での不思議な縁を感じる。
平成の大合併で八色石集落はKの生地と同じ町名になったが、それまでは隣の町であった。ただ、松子(以下Mという)にとっては、集落こそことなるものの同じ町内である。
出身が同じか否かは、すむ身になるとかなり異なる。同じ町のMの場合、小中学の同窓生が近くにいたり、30余年ぶり帰ってきても「まっちゃん」で通じる人が大勢いる。
話しが少し余談となった。戻すことにする。
50歳過ぎた頃から、終の棲家は島根でと思うようになった。Kは末子ながらも長男である。当然ながら生家の地が候補となる。ただ、生家の地そのものは少し手狭のため、どこか良い地はないかと、盆や正月帰省のたびあちこち探し回った。
そんな動きを承知して、あるとき義兄が
「上田屋の山が道路脇にある」
と教えてくれた。
*少し余談。この石見地方にはそれぞれの家に屋号がある。Kの家の屋号が「上田屋」である。勤務の関係で東京、神奈川、山梨、岐阜と移り住んだが、屋号制度には一度も遭遇しなかった。
生地を離れて40年。この間、日本各地の道路は十分すぎるほど整備された。生地の事情も同様である。かっての山中に立派な道路が施設されている。
「ここが上田屋の山だ」
と義兄が連れて行ってくれた場所は、新たに出来た県道(バイパス)沿いにある。旧県道から4〜500m離れているが、古い記憶をたどると「上田屋の山」に相違ないようであった。中に押し入ってみると急傾斜があるものの平地もあり十分宅地になりそうである。
ただ、大きな問題があった。県道と「上田屋の山」との間に幅10mほど他人名義の山がある。買い求めることにした。義兄を通じ交渉し「言い値」で求めた。登記は平成11年1月となっている。
当時Kは関係会社に出向していた。会社のある町は、後にノーベル賞を受賞された小柴さんの研究施設「スーパーカミオカンデ」で一躍名をはせた。町名は神岡町(現在は飛騨市)という。
またもや少し横道。この町にS氏なる人物がいる。棟梁であった父の後を継ぎ工務店を経営する傍ら部品加工事業にも手を広げていた。出向先の「外注さん」という関係で知り合うこととなった。一緒によく飲んだ。我が家にも、それも夜遅く突然訪れ、飲み明かすこともしばしばである。
そんな話しのなかで「上田屋の山」の話をしたのであろう。またしても突然我が家を訪れ「上田邸新築工事計画案」なるものを差し出した。CG付きの本格的な設計図である。しかも
「現地を確認してきた」という。
「如何にして」と訊ねると
「カーナビ頼り、一泊二日で見てきた」と事も無げ。
「計画案」の日付は平成12年4月28日となっている。
こんなこともあり「島根に帰る」のが現実味をおびてきた矢先のことである。
飛騨地方の春は遅い。5月末、ゴルフ場がオープンし会社恒例のコンペが行われ参加した。その夜から腰が痛みだした。その年の2月、一度痛みを覚えたが程なく消えたので「今度も・・・」と町病院の診察で済ましていたが、良くなるどころかひどくなるばかり。やむなく富山医科薬科大学付属病院の診察を受けた。結果は予想以上に悪く脊椎の手術。「前方なんとか」というもので「腹を切り臓物を外に出した上で、脊椎に溝を掘り他の部位の骨を移植する」という大掛かりな手術であった。8月から10月まで3ヶ月も入院した。
手術も終わりリハビリしていた頃主治医に
「山の中に家を作ろうと思う。体力はどこまで回復するか」と訊ねると
「重量物の運搬はまず無理」との答え。
「上田屋の山」が霞む気がした。
ちょうどその頃Mが
「郷の父から電話があった。実家の近くに格好の物件がある。ただし、物色中の人もいる。急ぎ手を打ちたい。了解の返事を」という。
「急ぎ返事を」と迫られても、思案のしようが無い。「せめて写真くらい」というと、数日後には写真が病院に届いた。家の内外、かなり荒れている様子なれど広そう。大きな銀杏が黄色く色づいている写真もあった。
「上田屋の山の開墾」よりは良かろうと買うことに決めた。
持ち主が事業に失敗した由、一部は銀行の抵当に押えられているなど難物物件で入手にはかなりの労力を必要とした。すべてMの父と義兄が手続きしてくれた。平成13年3月19日、Mの父から全て作業をし終えた旨の電話を受け取った。登記は事態の進行都度おこなわれているが、最後の登記の日付は4月9日となっている。
ただし農地法は、農業経験の無い者の農地の入手を認めていない。田畑の名義はMの父とせざるを得なかった。
ただ、Mの父は平成15年に亡くなり、相続で名義はMに移っている。
このHPのトップでは、入手の面積は20,000uと記載しているが、これは「里庭」該当エリアのことで、その他に圃場整備済みの田圃や飛び地の山があり、合計すると65,000uにおよぶ。
さて、物件を始めて目にしたのはその年のゴールデンウィーク。荒れてはいるものの屋内はリフォームで対応可能と判断した。Kは勤務の関係で帰れない。業者などとの打合せはMが一人帰省し対応した。
Kの退職は形式的であるものの6月29日の株主総会。退職後も社宅に居座り、本文冒頭記載日に八色石住民となった。振り返ると、「八色石里庭物語」のスタートの日でもある。