八色石集落の変遷

 過日(平成22年3月)のことである。我が家が所属する公民館の主事であるYさんの来訪を得た。
 「ホームページに掲載された八色石集落に関する文章を読んだ。その内容に関連する資料が公民館に保管されているので、参考になるかもしれないと思い持参した」
ということで、一冊の本を提示された。
 「八色石のことも載っているので・・・」との話であり、有難く拝借することとした。

 本の題名は「ふるさとの今と昔」という。瑞穂町老人クラブ連合会の編纂になるもので、平成3年を基点にして現存する家と現存しない家を集落単位でまとめたものである。
 編纂の方法は集落ごとに2種類の表示法が採られている。一つは集落の地図を示しその中に現存する家を○印で、すでに無くなった家を×印で示したものである。そして、それぞれに屋号が付してある。もう一つは表の形式で現存する家の屋号と氏名、現存しない家の屋号と氏名が一覧できるようになっている。これを旧瑞穂町59の全集落にわたって調べたもので、連合会会長の「発刊にあったっての言葉」の一部を引用すると次のとおりである。
 「私達の地域の基盤はどのようなものかの一端を知るため、瑞穂町の昭和初期以来の家々の変遷を調べることにしました。昭和以来の日本の発展と共に、瑞穂町の家屋が如何に変わっていったかを知るという事は瑞穂の文化の変遷を知る事であり、その時代を瑞穂の人が如何に心豊かに生活したかを知る事になると思います。・・・」

 前置きが少し長くなりすぎた。八色石集落の項を見ることにする。
 一覧表では現存する家が46戸あり、現存しない家の数が26戸と記載されている。計72戸の家が存在したことになっている。一般家屋ではないが駐在所、役場布施支所、散宿所の3施設も無くなったと記されている。
 前報(八色石集落の人口推移)に記述しているが、昭和30年の戸数は62戸であるから、昭和初期から昭和  30年までの間に10戸減少したことになる。この理由は後で少しふれる。
 
 散宿所が存在したことはこれまで何度か耳にしたことがあったが、役場支所や駐在所の存在については今回初めて承知した。かっては、店もあり八色石集落内で日常生活が完結する小さな「村」が形成されていたものと覗える。

 地図の方を見てみよう。八色石集落の形状は、いくつか支線はあるものの古くは銀山街道といわれた県道31号線に沿って家屋が点在する細長い街である。中ほどに道の両側に家が並ぶ場所があり、ここが集落の中心である。支所、駐在所、散宿所らもこの中心部の一角に存在したと図示されている。
 隣町・川本町との境付近に鉱山事務所の表記がある。聞いた話では町境に小さな銅鉱山があったという。その従業員と思われる人の名前(屋号ではない)が×印を添えて表示されている。従業員宿舎群が存在したのであろう。この戸数が6戸である。昭和初期から30年までの間に無くなった戸数の半分はこの鉱山宿舎の減少によるものである。

 一般の民家を見てみよう。一見して×印は集落の周辺に多いことが読み取れる。×印の比率を求めてみると中心部は5/29=17.2%であり、周辺部は21/43=48.8%にのぼる。ただしこの値は鉱山宿舎の特異値を含んでいるので、これを除くと15/37=40.5%となる。倍以上の値で周辺部の減少が進んでいる。中心部に住む人と周辺部に住む人の生活様式に大差はなかろう。何ゆえ周辺部の減少が多いのか、その理由は判然としない。

 地図を片手に×印の跡を訪ねてみた。中心部では畑になっている箇所などで、ここに家があったのだ、とおよその場所を確認できることも多い。しかし周辺部ではそうは行かない。まれに石垣などあり、ここが、と思う場所も無いではないが、大半は杉や檜の植林地か雑木の並ぶ荒地になっている。意味は異なるが「つわものども が夢の跡」と同じ感傷にひたる場面が多々あった。

 以上が「ふるさとの今と昔」をもとにした八色石探索物語である。
 昔をよく知る人を同行すればさらに詳しい事が判ったであろうが、今回もそれをしなかった。これは私の性癖である。何事も独力で、といえば聞こえは良いが、人を頼むのが億劫なだけの話である。