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2019年12月31日(火)
定点観測

4度目の定点観測である。
同じ日に、同じ場所と温度を記録しようと始めたもの。

景色は天候による変わりを除いてほとんど変化がない。
昨年は雪であったが、今年はそれがない。

問題は温度である。
昨年は失敗をした。 こちら→(2018/12/31)
今年はその轍は踏まないと、9月に温度のリセットをした記憶がある。
昼過ぎ、確認のため計測器をパソコンにつないで確認すると、データが11月25日で切れていた。

9月にリセットしたはずなのになぜ?、と確認すると、6月から9月のデータが2重に残っていて、リセットの形跡はあるが、実はリセットしてなかったのである。

慌ててリセットして、午後のデータから取り始めた。
夜の温度は氷点下より下がっている。
昨日から寒くなってきた。その傾向が現れている。



2019年12月30日(月)
孫帰る その3

すでに今日は、孫らは帰る(東京に)という。

飛行機は広島発午後5時前。なにがあるかわからぬということで、昼食をとったら出発ということにした。
出がけに、お墓参り。そして空港。

暗くなる前に帰ったら、ということで4時過ぎにロビーで分かれる。

帰る前、孫に、何が面白かったと尋ねると、
 1番が焚火
 2番が公園で遊んだこと(昨日焚火後、Mと二人で旧小学校のグランドに行き、遊んでいる)
 3番がお手伝い
と、答えが返ってきた。

確かに今回は、色々な場面で手伝いをしてくれた。
Kが食器を洗っていると、「手伝いたい」と言って並んで作業をすることも・・・。

そんなこんなで、今回の孫帰るを、終えることになる。
あっという間の、そして怒涛の3日間であった。

もはやこれで、我が家の正月は終わりである。
あとはひっそりと暮らすことにしよう。



2019年12月29日(日)
孫帰る その2

昨日の続きである。

突然の思いつきが挙行されることになった。
幸い雨は降らない様子。さらに有難いことに、寒中にしては暖かでしかも風がない。
昼食を外でとることになった。
おでんを七輪で温め、火を燃してその熱で肉と芋(じゃが芋とさつま芋)を焼いて食べようという趣向である。

11時頃から始まった。
まずは火起こし。息子がボーイスカウト時代に経験したというタワー状に火種を作ったが、すぐに火が燃え尽きて火種にならない。結局は、我々が培った枝焼きの技法で火を着けた。
例えば こちら→(2018/5/21)

燃した火力で焼くには少々の火では無理で、着火して燃え上がり、「これなら焼ける」という状態に火勢が成るのにおよそ1時間、アルミホイールに包んだ肉や芋を入れて焼き上がるのにおよそ30分、これを待つ間はおでんで一杯という状況。
焼き上がったじゃがバタや肉も結構な味であった。

孫もそれなりに楽しんではいたが、結局本気で楽しんだのは大人連中であったかもしれない。
2時過ぎには一応お開きにしてKは屋内に戻ったが、残りの連中はそのまま屋外で時間を過ごしていた。。

途中の会話で子供の記憶のことになり、今日の出来事を孫が成長した折覚えているだろうか、と議論されたが、結論は「覚えている」ことに納まった。
孫の記憶に残る一日であれば有難い、次第である。




2019年12月28日(土) ラベル1228
孫帰る

2年続けて、年末に孫の帰省がかなうことになった。
昨年は思わぬ大雪の中の帰省であった。  こちら→(2018/12/28)

今年は年末の雪はなさそう。
孫からは早々と、要望が届いていて、焚火がしたいのだという。
その希望がかないそうであった。

11時前に飛行機は広島に着くという。我が方は9時前に家を出た。
悠々間に合うつもりで出かけたが、時間を見誤ったようで、孫らが到着出口から出てくるのと、我々が付くのが同時、あわただしい対面となった。
帰ってきたのは孫と長男。お嫁さんは今年も「紅白」の広報でかなわぬらしい。

昼食を途中の町でとって、若干の買い物をして、家に着いたのは午後の3時前であった。

車の中で、「着いたら焚火」の言葉が発っせられていて、家に上がる間もなく焚火の支度にかかる。
心づもりは一応してある。運搬車で落ち葉をかき集めに行き、下の畑に下して着火という段取り。
Mは黒豆の豆柄を焚き付けに用意した。

孫は自分で落ち葉や小枝を拾ってくる。
小1時間燃して第1行事を終了した。

予定外であるが明日の昼は、火勢をも少し強くして、野菜や肉の蒸焼きをしよう、という話が持ち上がってきた。
天気は持ちそう。
思いつきの行事が叶う(かなう)かもしれない。



2019年12月27日(金)
小さな思いつき

毎朝コーヒーを入れることは以前触れている。 こちら→(2018/12/25)

その習慣は今でも続いているのだが、そのコーヒーの入れ方で思いついたことである。
入れる量は小さな魔法瓶に一杯分作るのであるが、この折の水の量の測り方である。

手順として、専用のポットで水を沸かす。ポットに水を入れるとき水の量は外から見えない。上からのぞき込んで見つつ、手に感ずる重さで量を決めることになる。
長年の習慣でかなりなれたとは言え、結果で出来る湯の量はやはりばらつく。

良い手はないかと考えたこともあった。例えば、ポットの中に卦がき線を入れておくとか。
ただし、結果的には、これだという最適な方法が見つからなかったのである。
しかし今朝、思わず閃いた。
小さな思いつきではあるが、手間いらずで、これ以上の解はない、という最高の測り方である。

何か。
ドリップする受けの瓶で測ればよい、のであった。


瓶はガラス製。水の量は外から見える。この受け瓶で水を正確に計量しその水を湯沸かしポットに移して沸かせばよいのである。

長年の懸案が解消できた。という小さな思いつきの話である。



2019年12月26日(木)
赤ひげ

今朝の新聞、テレビ欄に放送予定が載っていたので慌ててセットしておいた。
黒澤明の「赤ひげ」である。
BSプレミアムで午後1時から放送された。
セットしたのは、テレビの録画機ではなくパソコンの録画機。
.
随分以前、今のテレビを購入してすぐのころ、この「赤ひげ」がテレビで放送されたことがある。その時はテレビの録画機で録画した。保存はDVD-R。長い映画であるから、DVD-R2本に前編と後編に分けて録画した。
DVDに録画されたものは劣化しないとされるが、その後1年位して再生をしてみると、前編の方が映らないという事態が起きた。

少し余談だが、当時時間経過で写らないものが5%くらい発生し、録画機メーカーやDVDメーカーとやり取りしたが、「我が方に問題は無い」と言われて原因が分からないままである。

結局、我が家では、録画状態で見ることができる「赤ひげ」は後半のみなのである。

Kにとって「赤ひげ」はかなり大事な映画である。邦画で一番を挙げるとき、もしかするとこれを挙げるかもしれない位である。
テーマ音楽がいい、導入のカット・加山雄三が入る門のところがいい、各場面の映像が輝いている、といいとこずくめなのである。

それが撮れるとなって、慌ててセットした、というわけである。

夕刻確認したら取れていた。
今日は、見る時間はない。どこかでゆっくり見ることになろう。

以前小欄において、「赤ひげ」の話を載せていた。 こちら→(2017/5/15) 
これも余談である。




2019年12月25日(水)
草紅葉

朝、外に出ようとしたとき目に入った景色。
草紅葉である。

木々の葉はすっかり落ちてしまって紅葉の時期は終わったが、草が景色に色を付けている。
雪が降って景色が白くなるまでの、幕間のもの。

今年は暮れるまで、どうやら雪は降りそうにない。
当分はこの景色とお付き合いになる。



2019年12月24日(火)
年賀状絡みで

昨日の続きになる。
我が家のカラー印刷機はインクジェットプリンターで、一度にセットできる枚数はせいぜい10枚程度である。
10枚の印刷に数分要す。付いているわけにもゆかないので、用事をしながら印刷することになる。ほぼ1日かかってようやく印刷を終えた。

刷り終えた葉書をテレビの前にたまたま置いていたのだが、それを遠望してチョットした感慨を覚えたのである。

昨日は、「パターンが決まっていて」と書いたが、若干は進化していて、数年前から葉書の頭の部分に数行、二人の生活ぶり現すコメントを書くようにしたのである。
これで手書きを添えずとも、一応格好がつくようになった。省力化の一つである。

で、今年のコメントの書出しは「八色石に居を構えて19年目」とした。
この「19年目」に感慨を覚えた、という次第である。

Kの生涯で、同じ場所に住み続ける年月の最長に並んだ、ということになった。
これまでの最長はKの生地の矢上である。高校までが18年、自宅浪人を1年したので計19年。
これに並んだということになる。
もう1年位は生きていようから、そうすると、八色石が一番長くなる。Kの故郷は生地の「矢上」ではなく、この「八色石」がとって代わることになる。

振り返ると、あちこちに住んだ。
大学時代は戸畑(福岡県)で4年。
就職して、結婚前は、川崎市が2年と東京の大井町(大田区)が2年。
結婚後は、川崎市が2年、駒場(目黒区)が3年、大和市(神奈川県)が4年、海老名市(神奈川県)が4年。
工場が移転して、白根町(現、南アルプス市、山梨県)が6年。
出向して神岡(岐阜県)が9年。

そして、八色石になる。
当分はここにいて、後は鬼籍に移り住むことになろう。



2019年12月23日(月)
年賀状

年賀状作りが佳境である。日本中のあちこちの家庭で、話題になっているのではなかろうか。
我が家も決まってこのころである。

我が家の場合年賀状は2式作る。1式は当然我が家用。そしてもう1式は娘一家用である。
娘もパソコンができないわけではないが、プリンターが無いという理由で依頼してくる。かれこれ5、6年にはなろう。
最初12月の中頃に、ご機嫌伺いのLINEが入る。「今年はどう?」と。
「仕方ない、いいよ」と答えると、次は映像の情報が送られてくる。
それの準備ができたと回答すると、次にコメント文がくる、という方式である。
出来上がった画像を確認用に送付すると、先方も手慣れたもので、「お父さん凄い、天才!」と褒めそやしてくる。
こんなやり取りで今年のものは2日前に完了した。

次いで我が家用になる。
我が家の年賀状はパターンが決まっている。里庭の状況を写した組み写真4枚が中心のもの。すでに10余年は同じ方式である。
途中、変えようかと話題になったこともあったが、頂く年賀状の中には良いと褒めていただく方もあって、そのまま継続して作成している。

最初におよそのテーマを決める。大方二人の相談である。
次が、そのテーマに沿っての写真選び。これが大変である。我が家の写真で1年間に撮られたものは膨大で、その中から探す作業である。Mがその作業に当たる。先日、深夜遅くまでかかってやっていた。この時、10枚から20枚選ぶ。
その中から最終の4枚を選び出す。これは2人。
最後の葉書としての作成はKがする。ただし、これはパターンが決まっているので左程のことはない。
今日、ここまでの工程を終了した。

明日、印刷の予定である。
枚数は240.。KよりMの方が必要数数は多い。



2019年12月22日(日) ラベル1222
EDATE関数

Excelの関数の話であるが、ここに至る経緯を少し説明することにする。
地元の社協に勤めたことがあるのはすでに何度も触れた。
話の発端は退職後数年経ってからと思う。勤務時、パートナーであった女性も部署が変わり、総務担当になっていた。
その女性から相談が来た。社協で新たに奨学金制度を始めることになった。ついては
、その制度の管理プログラムを作ってくれないかと。かつての同僚、喜んで応じて作成したことがある。

以後、10余年が過ぎて、先日社協から連絡が入った。Kの在職中もいた人(女性)でよく知っている。
今は、奨学金の担当をしているという。
その奨学金制度の一部が来年から変わることになった。ついては、先のプログラムを修正してもらえないかという依頼である。
喜んでやりましょう、となって先週水曜日に打ち合わせをしてきた。

以後、結構集中して修正作業をしているのであるが、その中で新たに見つけた関数が標題のことである。

改正点の主要部は、奨学金の返還方法が変わる。
これまでは、返還期間は6年で、返還回数は半年ごとの年2回であった。それが、期間が10年に延長され、回数は半年毎の年2回と毎月返還の年12回の2種類が選べることになったのである。

言ってみればただそれだけの変更であるが、プログラムの変更となると厄介なこともかなりある。
これまでは総返還数は12回であった。それが20回と120回になる。回数が増えるということと、人によって選ばれた方法でデータ管理をしなければならない、という変化対応が必要になる。
そんな次第で、水曜以降、時間があればこれに関わっている。まだ、完成していない。

と、これまでが前置きである。
貸与や返還の帳票を作成するであるが、これらのデータ単位の大半は月単位である。
Excelでは、文字でなく数値で年月日を表示するには、その年月日に相当した数値がある。
例えばあるセルに令和元年12月22日と表示するためには、セルに「43821」という数値を入れて(実際は別の簡易な入力をするのだが)表示設定すれば、先の日になる。そして、数字の「1」が1日に相当する。
これまで、Kはこの事しか承知していなかった。したがって、Aのセルに「1月」と表示させて計算でBのセルに「2月」と表示させるには、B=A+30という算式で行っていた。半年先ならB=A+(365/2)となる。
以前作成していたプログラムは基本的にはこの考えで作成した。

以前は変換回数は12回である。今回は最大120回である。
数が少ない時は何とか以前の方式で間に合ったのであるが、これを120回も繰り返すと誤差が積み重なって(月の日数が一定でないため)、例えば「3月」の横が「5月」に成ったりして、表が正しく作成できなくなってしまったのである。
数値を微妙に操作してみたりしたが、結局は駄目であった。

調べてみた。なんのことはない。月を操作する関数が用意されていた。それが標題の関数である。
これまで、30年くらいExcelと付き合ったが、初めてこの関数を承知した。

修正作業も大山は越した。
作成帳票も何種類かある。その一部。

この表の裏で先の関数が活躍している。

KがExcel関数の参考にする本は30年近く前のものであるが、その本にも先の関数は載っていた。

Excel開発当時から作成済みなのであろう。
こういう関数も必要なのだと予め用意する、当時のマイクロソフトの関係者の凄さが伺える。



2019年12月21日(土)
あわや骨折
奥の方の部屋に板製の引き戸があって、すこしばかり力を加えないと開け閉めできないところがある。
今朝のことである。

記憶が定かでないところがあるのだが、もう1枚の戸がわずか開いていた気もするが、なぜか少し力を加えて戸を開けた気がするのだが、右手の指の人指し、中、薬の3本を挟んでしまった。痛いと思って瞬間的に指を戻した。
挟んだ指を調べたが、どうやら大事はなさそう、痛みは残るが様子見とすることにした。
とりあえず、朝のパソコン作業をしてみる。中指の違和感が一番強いが大方支障はなさそう、と気持ちを落ち着けた。

時間が経過して、人差しと薬はそのうち痛みがなくなるが、中指の痛みはいつまでもとれない。
昼食の時である。箸を持つと中指の爪に箸が当りひどく痛い。
妙な胸騒ぎがした。あわや骨折では?、と思い始めたのである。
8月に左手の薬指を骨折したときの痛みと似ている気もし始めた。

病院、とも思うが今は土曜日の午後。開いているかも分からず月曜でいいかとこれも躊躇。
そんな話をMにすると、「また!」と半分呆れながらもながらも「病院はやっている」、行ってきたらと勧められた。

痛みは続く。内心、骨折の確率は高いと思い始めて、行ってみることにした。いつものクリニックである。

クリニックでも医者に「今年は指の災難が多いですな」と笑い顔で迎えられた。
で、レントゲンである。

映像が出来て、再度呼ばれて医者の言うに「今回は大丈夫でした」と、まあ半分安堵の表情。
私も「助かった!」と心の中で大いに喜んだ。


痛みは爪の下で内出血している。これが痛みの原因と、医者は言っていた。



2019年12月20日(金)
本日休刊
2019年12月19日(木)
晩秋から初冬へ

2階自室の窓から見て正面には山が見える。

山は朝日を受ける形になり、晴れた日など景色が目に入った瞬間、殊更心が動くときがある。
そんな時は手元のスマホでつい1、2枚ということが起きる。

それらの内から、晩秋から初冬への移ろいが読み取れる写真4枚を抜き出してみた。


初めは全山紅葉の葉が残っているが、次第にその赤色が下方に移動し、終盤では赤色が失せている。
写した時間は、7時半ころから8時過ぎまで、晴れた朝であるから後半は霜が映る。

およそ1ヶ月を掛けた、時の移ろいであった。

これからは山は白みを混ぜることになる。

薄緑が混じり始めるまで、冬ごもりの生きようが続くことになる。



2019年12月18日(水)
むなしく全滅

オリンピック第2次募集の抽選結果が出た。
なんとなく、今回は、何か一つくらいは当たる気がしていて、期待しつつ開けたのであるが、全滅であった。

第1次募集結果が こちら→(2019/6/20)
第1時で全滅の人を対象にした補選が こちら→(2019/9/14)

そして今回である。

初日を開会式にして、翌日から1日1会場、ラグビー、卓球、スケートボード、水泳と申し込んだのであるが全て落選と相成った。

今朝の7時台NHKニュースで、スポーツ担当の豊原アナが、「私も全滅でした」と苦笑いをしていたが、氏の場合は、今やNHKのスポーツ実況の第1人者、実況放送で入れるのは間違いないが、当方はそんな当てもない。
9月時点では「だめなら、マラソンの沿道観戦」と粘りを見せていたMも、マラソンは北海道に行きそれもできない。
「対面販売を買いに行こうか」とも言い出しているが、果たして結果は如何・・・。



2019年12月17日(火)
蜂に刺された

山水の最終放流口の水の量が、山水の取り口の量に比べて少ない気がする。
放流管の接続部で漏れている可能性があり、調べてみようかと思い立った。
小さな鍬をもって、いつもの作業用皮手袋をして、と。

その時、皮手袋では濡れたら厄介と気がついた。
濡れない手袋でもと、軒下につるした手袋群を探すとMが使用するビニール製の手袋が、左右一緒に中指の先端を挟んでつるしてあった。

これが良いと取り外し、右手を入れて次に左手を入れた瞬間に、小指の先端で電気が走ったような鋭い痛みを感じた。
一瞬何事が起きたのか分からない。慌てて手袋を外し指の先を見るが、取り立てて変わった様子は見当たらない。
手袋が原因か?、と小指の先端をつまんでみると、何かいそうな感触があった。
このような場合は大方ハットウジ(カメムシ)である。それにしても、ハットウジは噛むの?、と出してみることにする。

先端をつまんで強く振る。なかなかでないが、ようやくにして出てきたのは蜂であった。

あの痛さは蜂ならわかる。ただ、今どきまだ蜂が居るのだろうか。冬ごもりに入っている時期である。

以下は推測であるが、秋の終わり頃か、たまたま手袋の中に入ってしまった。外に出ようとして這い上がるが先端の細い箇所で行き止まる。身動きができなくなってそのままとどまった。というところではあるまいか。
出てきた蜂は弱っているのであろう、ほとんど動かなかった。

正体がわかってその場を去る。
作業後、戻って蜂のいた場所を見たが、もはや蜂はいなかった。

腫れるかな、と思ったがひどく腫れることはない。1時間程度で痛みは無くなった。
ところが結構痛痒い、感じがするのである。
刺されたのは、実は昨日。一日経っても未だに痛痒さが残る。蜂の怨念が籠っているのかもしれない。



2019年12月16日(月)
秋じまい 最後
秋じまいの作業としては、正真正銘これが最後になる。
昨日と違って今日は大いに慣れた草焼き。場所はリンドウ特区。
草刈りをしたのは11月。 こちら→(2019/11/26)

例年に比べ今年は冬型の気圧配置の日が少ないらしい。
太平洋側は晴れる日が少ないそうで、逆に日本海側が晴れる。昨日も今日も、暖かで風もなくからりと晴れた。
お陰で、越年も覚悟のこの地の草焼きができたという次第である。


朝は大霜で、仕事にかかったのは午後2時前から。およそ1時間の作業。
煙の見納めである。



2019年12月15日(日)
落ち葉焚き
落ち葉「掻き」はこれまでに何度もしたが、「焚き」は初めてである。
12月10日の後半の部 こちら→(2019/12/10)

下の畑に落とした分の処置である。焼くか腐らせるか迷ってはいたが、結局焼く方が楽だろうと意思を固めた。
ただ、これほど大量の落ち葉を焼くのはこれまで経験がない。
どんな燃え方をするのか、様子を探りながらの「焚き」である。

落とした場所から少し離れたところで焼くことにした。
着火はしずらい。燃え上がらせるには何らかの着火剤が必要である。枯葉をもってきて着火剤にした。
葉は完全に枯れているのに、枯草の様には燃え広がらない。
一方、着火した葉の燃焼時間はかなり少ない。着火した葉にさらに葉を運んで小山にし、30分ほどその場を離れて戻ってみたら、小山は完全に燃え尽きて灰になり、火の気は全くなくなっていた。
新たに着火し直す必要があった、ほどである。


そんな次第で、つかず離れず、およそ2時間を要して焚きつくした。
総合所感としては、今後落ち葉の始末法として「焚き」を選択するのは「有り」、という所である。



2019年12月14日(土)
本日休刊
2019年12月13日(金) ラベル1213
雑木林構想の遺産処理

おぼろげながらではあるが雑木林構想というのがあって、それは竹林を撤去してそこに雑木を植える、というものであった。

孟宗竹の竹林を撤去するには3年を要したが、昨年春に終結した。 こちら→(2018/4/16)
竹林跡に植える雑木苗の準備を始めたのは2016年のことで、 こちら→(2016/9/7)
その後、大きくなった苗木を竹林跡に折々に植えて、竹林跡の整備の終結宣言をしたのが、昨年の11月
こちら→(2018/11/17)
である。もはや植える場所がなくなってきた、として終結としたわけである。

にもかかわらず、雑木の苗場には大きくなった苗が残っている。
このまま放置するわけにもゆず始末方法を考えていた。
切って捨てるのは容易いがそれも忍びない。誰かに持ち帰ってもらう算段を考えることにした。
自分で植えるなら、倒したままでひげ根の無いようなものでも根付くが、他人に譲るならひげ根があって寝巻したものに限る。これをどうやって作り上げるか、かなり思案した。
大きな鉢に植えて、鉢ごと土に埋め、時間をかけてひげ根を作る、とも考えたが、ベスト案ではない。

最終的に練り上げた案が、ビニール製の網掛法である。
根の周りをビニール製の網で覆う。すると根は網の外には出ない、網の中でひげ根を張る。しかも網なら水の心配は不要である。
次は製作法である。いったいどうやってそれを作るか。頭の中でシミュレーションしてみる。
どうやら行けそうな案を思いついた。
鉢を使う法で、鉢に初めに網を敷きその中に苗と土を入れ、網毎引っ張り出して植付ける、というものである。

今日は晴れ。やってみることにした。大霜である。9時頃一旦外に出たらひどく寒い。
出直して10時過ぎから着手した。

初めてのことで、うまくゆくか心配しつつの作業であったが、思いのほか上首尾で事が運んだ。
植え替えたものは、欅が2本、山桜が1本、モミジが1本の計4本である。
昼食をはさんで14時半ころには作業を終えた。

来春以降上手く根付いたら、嫁ぐまで待機して、嫁ぐ折りには掘出し根巻きをして出すつもりにしている。



2019年12月12日(木)
保育園の餅つき大会

恒例の保育園餅つき大会に行ってきた。
地元の3老人会が応援する。

今年は5臼。
餅つきの後に行う、干し大根作りは、今年は大根が不作で採れなかったとかで実施されなかった。

この餅つき大会に不随しては、ちょっとした思いでがあって、それはこの餅つき大会の後で熱が出て数日寝込んだことがある、という出来事である。
昨年のことではないので、一昨年の出来事だろう、と思い返し小欄を繰ってみたら、さらにもう1年前のことであった。

 餅つき大会 こちら→(2016/12/15)
 風邪の話  こちら→(2016/12/17) と こちら→(2016/12/19)

加齢の性で時間軸が短くなっている。あれから、丸3年が経っているとは思いもしなかった。



2019年12月11日(水)
Ctrl+Alt+→
標題の意味はパソコンのキーボード操作で「Ctrl」キー、「Alt」キー、「→」キーの3個のキーを同時に押す、という意味である。
するとどうなるのか?
パソコンのディスプレイで表示が横になるのである。今日、初めて知った。

話が少し戻るが、NNHKの番組で料理が放送されることがある。良さそうな内容で撮っておきたいと録画をかけるが、これを再現するのが結構厄介である。
我が家の録画機は相当古いので、録画できる時間が短い。保存しようとするとDVDに撮るしかない。
よしんば撮ったにしても、料理のコツを理解するには録画を前後して望みの場面を表示ということになる。
面倒で大方は見ないで済ます、ということになる。
代替えの手はないかと思案している時、パソコンで放送内容のレシピをとればよい、と思いついた。

パソコンでレシピが見れることは以前から承知はしていたが、なぜか録画の番組のレシピ、ということに思いが行かなかったのである。
やってみた。問題はある。古い放送のレシピは消えていた。

そんな折、録画とは関係のない料理のレシピが色々目に入る。画像にして撮っておきたいと思うのだが、レシピの画面が長く、上下にスクロールしないと全容が分からない。
画面が横になれば1枚の映像になるのだが、と思った次第である。

ディスプレ映像を横向きにする方法があることは承知していた。パソコン設定からシステム→ディスプレとするやり方。しかし、結構面倒である。ちょいというわけには行かない。
あまり期待せずに探してみた。

思いもかけずにあったのが、Ctrl+Alt+→ である。


上向きに直すのはCtrl+Alt+↑で瞬時に戻る。

非常に簡単で便利な方法である。
ただし、全てのパソコンで操作できるということではないらしい。
Kの場合、主として使うパソコンでは可能であったが、ノートパソコンとM用のパソコンでは出来なかった。
まあ、メインパソコンで可能なら問題はない。



2019年12月10日(火) ラベル1210
予定外の落ち葉掻き 2題

一時ひどく寒い時期があったが、2・3日前から寒気団が北へ逃げたとかで、晴れで暖かな日が続いている。
そんなお陰で、過去には一度もしていなかった落ち葉掻きをすることができた。

一つは、二合庵前というか、公孫樹の下というか、の場所である。
公孫樹の落ち葉掻きは12月1日に実施した。 こちら→(2019/12/1)
結構大変な作業なので、掻くのは公孫樹の葉の濃い場所に限っていて、地続きにもかかわらず二合庵の前の葉は掻かないということになる。 こちらは欅の葉が落ちているのだが、時間経過で腐ると踏んでいるのである。

その結果であるが、2、3年前からあることに気がついた。
翌年緑が濃くなった時期にこの場所を見ると、落ち葉を掻いた場所は苔が蒸して情緒があるのに、掻かなかった場所は普通の雑草が生えるのである。
理由はよくわからない。欅の葉は大方腐ってか見えないのに、苔でなく雑草になるのである。
そこで、今年は掻いてみることにした。
12月1日に残した個所である。

小1時間の作業になった。

天気が良いので、もう一か所行った。特に曰はない。「一の坂脇」と名付けている場所になる。
年々木が大きくなり、落ち葉の量も増える。掻くことにした。
作業前は運搬車に積んで、腐葉土作成場 こちら→(2017/11/8)
まで運ぼうかと思っていたのだが、量が多く運びの回数は多そうに思える。
そのうちに良い案を思いついた。さらに下の場所があってここに落とせば雑作はないと。

やってみると案の定楽である。

作業時間は1時間強。
落とした先の処置がまだ決まっていない。ここで焼くのか、腐らせるのか。
思案のしどころである。



2019年12月9日(月)
今年の唐楓の実(種)

唐楓の実(種)については、昨年は初めてのことであったので、木の下の草を刈ったり、実を採って種にし、それを撒いて苗を育てたり、と大騒ぎをして小欄に何度も登場したが、今年は2年目のため、今回が2度目の登場である。
今年分の第1回は7月のこと。 こちら→(2019/7/11)

昨年の経験で実がすぐに落ちる心配はないと分かっていたので、たまに確認をすることはあっても、大半の葉が落ちるまでは放置しておいた。

およそ10日くらい前か、かなり葉が落ちたので、やおら実を採ることにした。
昨年より、実の付き方は多い。
3、4本の枝に着いた実を取ったらもう十分というほどになった。

取り込んで下屋で数日乾燥後、屋内でストーブの上で2日強制乾燥した。
今日、乾燥剤とともにビニール袋に収めたところである。

ただし、この先の予定が全く立っていない。
情けない話であるが、始末のつけ様を迷っているところである。



2019年12月8日(日)
薪小屋補正

”修理”とまではいかないで済んだので”補正”というタイトルにした。
2、3日前に、薪小屋がすこしばかり傾いているのに気がつき、倒れる前に補正をして、つっかえ棒を付け直した、という作業である。

薪小屋の歴史はかなり古い。 建てたのは平成20年である。 こちら→
これが、豪雪で倒壊し建て直したのが平成23年である。 こちら→
それがまたもや雪で倒壊し、今度は起こして修理した。 平成25年である。 こちら→
そして、倒壊ではないが、屋根を張り替えたのが平成26年。 こちら→

以来今日まで大きな手を加えていないので、転ばぬ先の杖、で取り掛かることにした。

こうゆうとき、運搬車は助かる。人力では動かずとも、運搬車なら起こしてくれる。
最初は前方向から引っ張り、次いで、右方向から引っ張って、それぞれ棒をあてがった。

小1時間の作業である。見てくれは良くないが、雪が融ければ横のつっかえ棒は取り除くつもり。
”補正”で住んで大団円!、というところである。

それにしても、10余年前ひょっとした思いつきで建てた薪小屋だが、今ではすっかり生活に溶け込んでいる。



2019年12月7日(土)
「ジーブス」を借りてきた

ほぼ2週間に一度の図書館通いは慣例になっているが、今回のそれで、あの、「ジーブス」を借りてきた。
あの、というのはこちらのことである。   こちら→(2018/11/20)
美智子上皇后さまの昨年の誕生日の逸話。

図書館に文庫本や新書など、小さめの本の新規購入品を並べたコーナーがあるのだが、その一角に並んでいた。
2冊並んでいたのだが、目に入った途端に借りる気になり、うち1冊を借りてきた。


図書館担当者も、この逸話のことを意識していて、表紙の見開きに、この事を記した帯を切って貼っていた。

昨日から少しづつ読みだしているのだが、上皇后さまのように本質的に読みたいと思っているわけではなく悪乗りしているだけで、外国人の名前がカタカナでやたら多く出てそれが覚えられず、なかなか面白いというところまでたどり着けない。

今日などは、数ページ読んだところで眠気がきて読むのを止めてしまった。
最後まで行き着くか、甚だ怪しくなっている。
教養の差というものは何とも情けないことである。



2019年12月6日(金) ラベル1206
初雪

朝、カーテンを開けたら正面の山が白く見える。
初雪だ!、と思って写真に撮った。
この時は、近くの庭などには積もっていなかったが、しばらくすると雪が濃くなって、周辺も白くなる。

ただし、これも一時で昼前には雪は消えていた。

過去の初雪を調べると毎年載せていた。
昨年  こちら→(2018/12/8)
その前 こちら→(2017/11/24)
その前 こちら→(2016/12/16)



2019年12月5日(木)

数日前のこと。
Mが「どう?」といって見せてくれた。

ネタの無い折りに使わせてもらうと、写真に撮っておいた。
今日がその日になった。

力作である。



2019年12月4日(水)
Kさん(K社長)が逝ってしまった
昨日山梨の話を載せたが、期せずして関係のある人の訃報である。
昨日の記述で「最もつらい時でもあった」としたが、そのつらさから救い出してくれた人である。
対面で呼ぶときは「K社長」と呼び、内々で呼ぶときは「Kさん」と呼ぶ。
奥様からの欠礼状が届いて始めて知った。80歳という。

機械屋さんで、Kが属した部品加工分野の人ではない。
初めて出逢ったのは、山梨の工場である。
移転が完了して、Kは生産管理課長の職に就き、Kさんは技術部長として他工場から赴任してきた。
分野が異なるので、一緒に仕事をすることは少ない。何らかのことで会えば話すくらいの接触であった。
数年が経つ。

Kのつらい時期が始まる。Kが罹病したのである。病状の詳細は割愛するが一言でいえば(畏れ多くも)雅子皇后と同類の病気である。
会社は厚遇してくれた。技術開発室という生産に直結しない部署を新たに作り、優秀な部下を5、6名与えてくれる。
それでも、当方が勝手につらいと思うわけである。

この間にKさんは神岡にある子会社(神岡部品)の社長になっていた。
1992年(H4)の1月頃と思う。Kさんから「部品に来ないか」と誘いを受けた。
若干の経緯はあるが、渡りに船と思われ、受諾を決意した。

着任したのは同年4月1日である。
K社長は個性の強い人で、評価は好悪相半ばするが、Kにとっては相性はひどく良かった。
「責任は俺がとるから好きにやれ」といい、仕事上で苦言を言われた記憶は全くない。
病気のことを思ってか「遊べ、遊べ」と本気で言われた。
仕事上での思い出は少ないが、仕事を離れての記憶は無数である。
ゴルフも年に2、30回は行ったし、二人だけで飲みに出かけたのも数え切れない。
こんな経過を経て、会社に行くのが辛くなくなっていた。
いつの間にか、救われていた。恩人である。

今回小欄を書くにあたり写真を探したが、会社内で写った写真を探すことができなかった。
二人がメインでなんとか出せそうなものが次である。忘年会のものらしい。


Kが神岡部品に移って5年後にK社長は神岡を離れアメリカに赴任した。三井金属がアメリカに作ったダイカストの工場の社長としてである。

K社長がアメリカにいる間に、Kは3度その工場を訪問した。そのうち2回は、他に一応の名目はあるものの、ゴルフをするのが主目的であった。
後任の社長(この人もK社長)が物分かりの良い人で、「Kさんが言うなら仕方ない。行ってきたらと」と許してくれた。
先の写真を探すとき、次のような、「米国出張報告」が出てきた。


メモ書きがしてあるが、今回書いたものではない。
懐かしい思い出である。

我々が当地に帰省して3年後に、この二人のK社長が、連れだって里庭に来てくれた。
これも、愉快な記憶である。

話が少しずれるが、今年の6月に別のKさんが逝っている。 こちら→(2019/6/23)
この文頭に「お世話になった方で5指」と記載しているが、今回のK社長もその5指に入る人。

心から哀悼の意を表する次第である。




2019年12月3日(火)
山梨の家
山梨に住んだ経験があることは小欄で何度も触れた。
その期間は1985年(S.60)から1992年(H.4)の7年間で、この期間は息子にとっては、中学と高校の時代にあたる。
その息子が、高校時代の同窓会があって山梨に行き、住んだ家の近くまで行ったので写真に撮ったととしてLINEで家の写真を送ってくれた。


場所は白根町(現;南アルプス市)。家の前の火の見櫓は建て替わっているが、住んだ家屋は昔のままの姿であった。
家主は土建業で町議であった。この事は以前うどん絡みで触れたことがある。 こちら→(2018/12/16)
1階が7部屋、2階が3部屋という大きな建物。
我々が生涯で住んだもので最大である。

借家であるが、若干経緯がある。
当時、三井金属の我が工場は川崎から山梨に移ることになった。Kは移転室次長という役目に就いた。
この事は別稿で少し触れている。 こちら→

移転室の業務には、社員の住居を確保することも含まれた。
住居は、アパート形式の建物(新築)もいくつか用意されたが、三井金属の借家制度を利用して借家をしても良いとされる。
移転室には、借家を希望する人の要望を聞いて事前に借家を探し、希望者に情報を提供する役目もあった。
若干職権乱用気味ではあるが、この情報探しの折りにこの大家に出会い、我が家用として借りる約束をした、という次第である。

6年余も住めばいろいろなことがある。
息子にとっては最も多感な時期を過ごしたわけで、「故郷は山梨」と言い切るほど。
同窓会は大いに楽しんだらしい。
Kにとっては、いい時もあったが、最もつらい時でもあった。
どこかで触れることがあるやもしれぬ。

そんな思いが詰まった「山梨の家」である。



2019年12月2日(月)
フレイル
今日の読売にも「フレイル」関連記事が載っていて、先日切り取った記事のことを思い出した。


11月27日付けの記事で、「フレイル」について解説している。
「フレイル」とは、「健康」と「要介護」の間の状態を表す言葉で、日本語で表現すれば”年寄りの健康度”と言ってもよかろう。
政府は来年度から、75歳以上の後期高齢者を対象に「フレイル検診」を実施する予定ともある。

以前小欄でフレイルに触れたことがある。 こちら→(2019/4/17)
その時は「フレイル」という単語は一過性のものと思っていたのだが、どうやら今後は、メジャーな単語に変身するのかもしれない。

何時のことだったか、メタボ(メタボリックシンドローム)という単語が出たとき、それ何?、と思ったことがあった。
が、今やしっかり普及して、健康度を言い表す(行き過ぎた?)キーワードになりつつある。
Kなども毎朝腹囲を測定して、85Cm以下にならないかと願っているわけで(現在値は88.5Cm)、メタボの概念は定着したといってよいのであろう。

時代は変わって、今後は「ファイル」で”やせ過ぎに注意”ということだ。

Kの望みは、やせずに腹囲のみ減らす、であって、前回の邑智病院定期診察の折り医者に「腹囲のみ減らす薬はないか?」と尋ねたら、「そんなものはない、運動するのみ」と一蹴された。

「フレイル」から話が飛び過ぎた。
まとまりのない結果である。


2019年12月1日(日) ラベル1201
公孫樹の落ち葉掻き
落葉が始まったのが11月21日であるから、 こちら→(2019/11/23)
その後ほぼ10日間、黄金色の絨毯を楽しませてもらったことになる。

色が少しあせ始めたので、落ち葉掻きを昨日から始めた。
昨日は雲一つない晴れ、小春日和。
今日は、曇り。
こんな状況下での作業であった。


所用時間は、昨日が3.5時間、今日が1.5時間で合計で5時間。
秋じまいの最後の仕事としてはビッグイベントと言える。

天気予報は明日から崩れるといっている。山沿いでは雪が降るかも、とも。

師走である。



Kの散歩帖